三上雅博のトーク
トーク情報三上雅博 見城徹見城徹 2019年の8月20日から24日、シカゴ・カブスのダルビッシュを訪ねた。毎日、一緒にご飯を食べ、リグレーフィールドでダルビッシュが投げてくれる球を打った。ダルビッシュ先発試合を最前列で観戦、ピッチャーマウンドとあまりに近い距離に興奮した。シカゴの街並みは想像以上に美しく、気候も空気が澄んでいて快適だった。摩天楼とミシガン湖と有名な建築物とアートと街路樹の緑が絶妙なシンフォニーで響き合っている。料理も美味しく、ダルビッシュの配慮は完璧だった。当時はオンタイムで755に写真もアップした筈だが、もう7年も前のことなのか?夏の終わりになるとあの時のシカゴの満たされた時間を思い出す。誰にも奪うことの出来ない幸福の記憶。ミシガン湖畔を散歩しながら、ぶらりと入ったカフェで飲んだフレッシュ・トマトジュース。飲んでいるその時の写真を僕はずっと755の自分のトークのアイコンに使っている。二度と戻って来ない幸せの時間を噛み締めながら死へと向かう一方通行の日々を生きる。今日もあのトマトジュースのビター・スウィートな人生の味を思い出しながら。
- 三上雅博
三上雅博 祖父の墓には遺骨がない。代わりに腹巻きが納められている。
昭和36年(1961年)3月9日。稚内所属の底曳漁船、第十八やまさん丸遭難。乗組員17名が行方不明となった。
冬から春へと季節が変わるこの時期の北海は、「爆弾低気圧」と呼ばれる猛烈な低気圧が数時間で急発達する特徴がある。この日も天候が急変して視界ゼロの暴風雪となり、激しい高波と船体が凍りつく「着氷」が発生した。当時の木造や初期の鋼製の底曳漁船にとって、この気象変化は致命的であった。3月9日の昼から夜にかけての荒天の最中に第十八やまさん丸は遭難した。船はもう見つからなかった。海の底へと消えたのだ。祖父はこの船に機関長として乗船していたのであった。乗組員が一人でも亡くなっているのに自分が生きて港に戻るわけにはいかない。そんな祖父だった。機関室の内側から鍵をかけたのか、水圧で出られなくなったのか。それはもう誰にもわからない。
祖父の船に乗れば出世する。周りの船乗り達からはそう言われていたそうだ。漁が終わり港に着くと乗組員を遊びに行かせ、自分だけは一人で船に残り整備を続けた。人の命を預かる責任を誰よりも重く受け止めていたからこそ、周りから深く慕われていたのだろう。
祖父は若い頃は樺太の真岡で魚を売っていたらしい。その頃、髪結いとして働いていた祖母と出会う。後に結婚して一男三女が誕生する。その末っ子が母である。
船会社を営んでいた曾祖父が借金を残したまま亡くなったことで、その借金を返すため、自らも船に乗ることになる。そこから船乗りとしての人生が始まった。人生のほとんどが海の上。家に帰るのは年に数回。ようやく借金の目処がつき、船から降りると決めたのは、母が五歳の頃だった。何屋さんをやりたい?そう母によく聞いてくれたそうだ。家族と過ごす時間を何より楽しみにしていた。
そんな矢先、弟子の一人が急用でどうしても船に乗れない事情ができ、祖父に代わりにお願いできないかと相談に来た。祖父は二つ返事で快諾。その船が、第十八やまさん丸だった。
僕のおとぎ話は祖父の物語だった。物心ついた時からその話を聞かされて育った。少年だったある日、ひやかしで祖母に祖父との馴れ初めを聞いてみた。
若い頃のおじいちゃんが魚を売っていたんだよ。そこに並べられた魚は、見てわかるくらい鮮度が良くてピッカピカで綺麗に輝いていてとっても美味しそうで、それを嬉しそうに威勢よく売っているおじいちゃんも、キラキラ輝いていたんだよ。
僕は祖父を誇りに思う。僕自身鮨職人として、運命的に魚に関わる仕事に従事する者として、少しでも魚を輝かせたいと願うのだ。


