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ハーゲンタッソ

★『普通』について(以下引用)  「普通」っていうのはたぶん、生きていくうえでほんとうの拠りどころのなりうる単純なことなのだろう。あるいは、ひとが心から納得でき、それに素直に従うことのできること、あるいはそれには従わねばならないと思えること。  それをいまどこに探したらいいのか。家庭のなか?恋愛のなか?仕事のなか?地域活動のなか?いずれにせよ、それは思想や倫理や常識として、つまり知識として学ばれるものではない。それよりもむしろ、人と人がからだをつきあわせて生きる場面で、このからだが底の底から納得するものではなくてはならないだろう。 (中略)  「普通」。普通列車などおいうとなにかサーヴィス・ゼロといったイメージがともなうが、もともと「普通」にはもっとポジティヴな意味があった。たとえば普通選挙。それは特定の人たちに制限された選挙ではなく、身分や性別、教育や信仰、財産や税額などを選挙権をもつための要件とせずに、すべての市民が権利としておこなう選挙わを意味した。あるいは、普通教育。これは、専門知識の伝授ではなく、ひとが一人の「人間」として、あるいは市民として、社会人として、生きていくうえでこれだけはどうしても覚えておく必要のあることがらを、世代から世代へ伝える教育を意味した。 哲学者・鷲田清一『新編 普通をだれも教えてくれない』より

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