映画「三島由紀夫vs東大全共闘〜50年の真実」を観ました。
エロティックと暴力は根源でつながる。エロティックは他者に自己を持たせない。他者が自己を持っているのであれば、それは暴力ではなく闘争と呼ぶものであると三島は語る。三島の楯の会は、非合法の闘争をするために存在しており、非合法だからこそ闘争を実際に起こした時には犯罪者となる。だから、その前に自決をする。市ヶ谷駐屯地の三島の最後を予言しているようでもあった。論客である芥との知の闘争は見応えがあり、無国籍でしがらみを持たない芥は、あらゆる事象に対しての関係性を断絶し、その先の持論を展開していく。反して三島は天皇を据え、関係性を断絶せずに考えを展開していく。三島は言う、もうそれは意地であると。
既成概念を破壊するために執筆してきた三島が、世代を超えて同様に既成概念を破壊する東大全共闘から闘いを挑まれる。お互いに部分共通はあることは理解しながらも、共に歩むことはない。
この映画を通して、改めて「言葉」の重要性が際立つ。社会システムの根底を構築するのは「言葉」であり、また、三島vs東大全共闘との知の闘争は、「言葉」があったからこそ50年もの時を経て語り継がれている。
私は来年になると三島由紀夫が自決した年齢に追いつく。私は市井の人ではあるが、これからも三島由紀夫の本を通して、三島由紀夫の言霊に触れたい。
それにしても、三島由紀夫や見城さんの肉体は素晴らしい。健全な精神は健全な身体に宿るのがまじまじと分かります。
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