ヒカ40マンのトーク
トーク情報ヒカ40マン モウリス@ニコ生NEX ZEROモウリス@ニコ生NEX ZERO 『AKB48裏ヒストリー 北原里英24歳、アイドルの生き方』感想
きたりえドキュメンタリー。何も驚くことも、意外なこともない。きたりえは、ずっとああ見えてたんだと思う。みんなに見えていた。でも見てなかった。…いやいやそうじゃない。
結局、30分ではきたりえのこころの奥底は見えなかったと思う。いや、300分でも見ることは出来ないだろう。あの人生観を、あの激しい競争社会で貫くには、ひとの何十倍もの理不尽や誤解に耐えてきたはずだ。「いい人」を通し続けるということは、他人のエゴ(毒)を飲み続けることでもある。下手をすると精神を破壊しかねない。彼女はおそらく、何度もその危機に直面しただろう。きっと彼女は「いい人ですね」と言われても、苦笑いをすると思う。そして、苦笑いの奥によぎる不協和を瞬時に消し去る。浄化しきれないときもあるだろう。でもそれは、きたりえだけの時間に封印され、ぼくらには見ることは出来ない。
あのドキュメンタリーは、きたりえの半分しか描かれていない。それはAKBでの彼女自体が半分しか機能していなかったからだ。AKBでの彼女を100の証言で「いい人」と証明したとしても、それが北原里英像の50%を超えることはない。他人には感動的であっても、本人が納得出来ていないAKB人生だったからだ。彼女は「いい人」と呼ばれるより、「素敵なアイドル」と呼ばれたいはずだ。そのためにアイドルになったんだから。そしていま、神の一手によって、残り50%を埋めるには十分すぎるチャンスを与えられた。これまで貯めに貯めた負債を一気に返してやるという闘志が煮えたぎってるだろう。(もちろん、そんなことはおくびにも出さない)それは誰かに対してのリベンジではなく、自分の生き方と社会との距離を縮める冒険だ。彼女は、その手応えを感じたいと思っていると思う。ガツンとした手応え。きたりえが信じてるものは、「いい人」と呼んでくれる承認ではなく、その実感、生きてることそのもののような気がする。そのために、あまりにも用心深く、安価なものに手を出して来なかった人なんだと思う。
勝利して笑い、ひとりになってもう一度笑え、きたりえ。ヒカ40マン モウリス@ニコ生NEX ZEROモウリス@ニコ生NEX ZERO 『指原莉乃座長公演@博多座』解剖①
〜神志那結衣・秋吉優花編〜
8月22日昼夜公演を観劇。
気がつけば、明治座とはまったくテイストが違っていた。第1部の半ばくらいだろうか。明治座の印象はとにかく「かわいい」だった。昭和歌謡ショー・フォーマットと掛け算されたメンバーたちは、横内氏の周到に練られた構成、ダイアログ、美術設計にあまりにもフィットし、アイドルという存在が大衆娯楽の系譜から少しも逸脱していないことをも見せつけてしまった。しかしそれは、半ば意識的でない要素も含んではいた。言わば「究極のやらされてる感」である。やらされてることを一生懸命やってる健気さ。それが物語と重なって、とてつもないレバレッジが掛かった。それが明治座成功の、ひとつの側面である。
ところが博多座には、それがまったく皆無だった。いくらなんでも、たった4ヶ月でこの変化を予想しろという方が無理だ。しかし現に、博多座のメンバーたちは微塵も「やらされて」なんかいなかった。ほぼ全てのメンバーが自立していた。自分の役を掘り下げ、意識的に造形しているのだ。しかもそれらは一点を向いていない。各メンバーが、自分の個性と適性をそれぞれにアレンジしている。そうでありながら、全体の統一感も明治座よりも増している。そこには、個人プレイを受容し合うことでまとまるというHKTそのものの性質も垣間見える。
博多座がスタートして間もなく、神志那結衣と秋吉優花への絶賛が飛び交った。それだけに、初めて観る際に前評判バイアスが掛からないよう用心したくらいだが、確かに両名とも、遜色ない活躍だった。あとから追加されたための座りの悪さはあったが、その違和感をカバーして有り余る。
神志那は、本人の素質もさることながら、横内氏の計算も見事だった。男役をやらせたことが、そもそもの成功の要因だろう。神志那は、ふだんの劇場公演においても、体型とそこから繰り出されるパフォーマンスが男性的だからだ。「美人」というキャラに惑わされてはいけない。神志那結衣の魅力とは、むしろ男性的なダイナミックさにある。
秋吉優花にも、彼女の個性をいかんなく発揮できる設定が用意された。それはかつて久世光彦のドラマにおいて由利徹や樹木希林が担っていた「出て来るだけで何かやらかしそうな存在」に近い。(久世ドラマが大衆演劇のフォーマットを意識していることは明白で、常連の由利徹などは現に大衆劇場・ムーランルージュ新宿座の出身である)秋吉もまた男役をあてがわれているが、神志那とは意味が違う。神志那の男装は宝塚的なものに近く、秋吉のそれはコメディ・リリーフとしての装いである。髷ヅラの秋吉が出てくるだけで吹き出しそうになる。そこで彼女が優れているのは、その期待感をきっちり超えてくるところだ。笑いの勘。しかもそれは、コンテクストを必要とする48グループのバラエティーを超えた、普遍的な可笑しさだ。そしてそれを振り切る全力感。何事にも手を抜けない彼女の気質が、舞台をはけるときの後ろ姿にまで現われていた。
秋吉の優れている点は、まだまだそんなレベルではない。コメディ・リリーフは、単に笑いを添えればいいというわけではない。作品の世界観を壊してはいけない。むしろ作品に厚みを与えてこその役割である。それを初舞台でやってのけた実力と舞台度胸には感服するしかない。
…と、まぁ、この2人だけでこれだけのことが語れるわけだから、明治座からのメンバーについては、その何倍も書くことがある。宮脇咲良を筆頭に、朝長美桜、村重杏奈、穴井千尋、多田愛佳、熊沢世莉奈…等々。特に宮脇咲良については、そろそろきちんとした論考をまとめてみたいとも思う。美桜の無謀とも思える(故に多大なる誤解を生んでもいる)挑戦についても、そろそろ書いておきたい。それらについては、また機会を改めて。
(つづく)ヒカ40マン モウリス@ニコ生NEX ZEROモウリス@ニコ生NEX ZERO 『指原莉乃座長公演@博多座』解剖②
〜熊沢世莉奈編〜
熊沢世莉奈ほどパフォーマンスすることの喜びを全身で表現するメンバーはいないだろう。その持続力たるや。そして最終曲の決めポーズでやりきった表情をするときの彼女はまた格別だ。
ぼくは、彼女の優れたパフォーマンスを目撃する度に、感想を伝えに行くようにしている。彼女の反応はいつも「あ!ありがとうございますっ!」と歯切れよくシンプルだ。その飄々とした爽快感が気持ちいい。
しかし、常に自然体のように見える彼女も、深く悩む夜があることが、今年の生誕祭のスピーチで明らかになった。もちろん悩んでないとは思わないけど、それを微塵も漏らさないのが彼女のスタイルなだけに、ハッとさせられた。そして、あの限りなくナチュラルに見える笑顔とダンスが、計算と鍛錬によって醸成されているという事実に驚いた。でも、決して「ダンス職人」だとは思わない。彼女のパフォーマンスの素晴らしさの少なからずは、彼女の自然体から発せられているものだと思うからだ。
そして熊沢世莉奈は「平和の人」でもある。彼女ほどイデオロギーを持たないメンバーはいないだろう。ここで言うイデオロギーとは「欲望の表明」という意味だ。彼女はいつも、他者との競争やテリトリーと切り離されたところにいる。(少なくともそう見える)その分、競争社会にいるアイドルとしては損をしてる部分もあるかもしれない。しかしグループにとって、そうした存在の意義は大きい。彼女が振り撒く無垢な笑顔は、競争社会に発生しやすいギスギスした空気を中和する。普段ぼくらが、いかに詰まらないことでくさくさしてるかを教えてくれる。HKTが「いちばん仲良しなグループ」だとするなら、彼女の存在は極めて大きいと思う。
だから、明治座の選抜に彼女の名前を見たときは、本当に嬉しかった。第1部では地味な役回りだが、第2部の狸祭りを明るく爽やかに盛り上げることに大きく貢献している。地道に積み上げてきたパフォーマンスが、伝統ある劇場においても、いつもと変わらず暖かく輝いている。そういう意味では、意外に舞台度胸のある人だなとも思う。これから観る人は、ぜひ彼女にも注目して欲しい。
熊沢世莉奈をもっと見よう。
熊沢世莉奈をもっと語ろう。
そして、たまにはレーンに行って、彼女の程よい陽だまりと飄々とした風に当たろう。
(つづく)ヒカ40マン モウリス@ニコ生NEX ZEROモウリス@ニコ生NEX ZERO 『指原莉乃座長公演@博多座』解剖③
〜植木南央編〜
植木くんは「いないところで弄られる人」として有名だが、今回の博多座では「いないところで団子が売れてる」。
植木くんが和服の団子屋娘に扮したnetshop限定生写真が話題になり、博多座公演では、さっしーの提案により、本当に植木印の団子が売り出されることになった。これがまた常に3人くらいの微妙な列が出来ているのである。店先には「ほぼ等身大」の植木くんのパネルが立っている。
団子屋娘はご覧になった方も多いと思うが、ひと目見て必ず笑うくらい似合いすぎている。いや、似合いすぎてるだけではないだろう。植木くんだから何倍も笑えるのだ。岡田栞奈や渕上舞も似合いそうな予感はするが、団子屋開設までは至らないはずだ。その辺に、植木南央のあまりにも謎すぎる魅力の秘密が隠されているのではないか?
正直、お芝居の上ではそれほど目立ててはいない。博多座ではやや目立つようになってきているが、植木くんならではの瞬間が欲しいところではある。狸祭りのセットリストでは、いつもの流麗なダンスを見せてくれているが、なんと言っても際立つのはやはりMCだ。
かつて植木くんのMCは、ガチな地雷芸だった。メンバーたちが「え〜〜っ?!」と悲痛な声を上げるのがお決まりの、怖いくらい寒いトークが毎回のように繰り返された。そのオチのキレの悪さから「もやっと」が生まれたわけだが、当時はそれすらも事故の上乗せ的なヤバいフレーズだった。
しかし、植木くんはやめようとしなかった。何か確信があったのか、それとも他に手がなかったのか。ともかくそれは淡々と継続され、いまや「薄っすらと盛り上がれる様式」として完全に定着している。「努力は必ず報われる」を最も体現しているのは植木くんではないか?とすら思う。(もちろんそんなことはない)
ここで「植木南央SHOW」について触れておこう。有名な夏祭りで行われたものではなく、『控えめI love you !』の抽選イベント「HKT48 SHOW!~博多のうどんはコシがなかとよ~」(東京は2014.11.15、福岡は12.21開催)で披露されたバージョンである。これが映像化されていないのは本当にもったいない。植木くんの総選挙順位をあと2位くらい押し上げるかもしれないほどの出来映えなのだ。
内容を簡単に言うと、等身大よりやや大きめの植木南央人形を椅子に座らせて、植木くんがそれにインタビューするという出し物だ。「等身大よりやや大きめ」というところが、薄っすら狂気じみている。しかし植木くんは、それをシュールには持っていかない。いつもの危うい植木くんトークだ。ひと言ひと言、何を言いだすか目が離せない。結果、矢吹奈子と並んで最も爆笑を巻き起こす出し物となった。夏祭りの「植木南央SHOW」がたまたま面白かったわけではないことを実証したのだ。このイベントは東京・福岡で計400人しか観ていないので、多くの人にとっては「植木史の空白」となっているが、彼女の成長記録として重要な出来事である。
そんな植木くんは、テレビのバラエティーとはそれほど相性がいいわけではない。ある番組では、収録分をまるまるカットされたという。『おでかけ!』の登板回数も多くはなく、出てもあまり抜かれない。そこにもまた、植木くんの謎すぎる魅力が隠されているのではないか?つまり、テレビのフォーマットに収まらない何か。ぼくは、むしろそれでいいと思う。植木くんは、どこまでも代替えの効かない特異点であり続けて欲しいからだ。伝統ある大衆劇場での公演というまたとない機会に、売店で爪跡を残すという予想だにしない芸当は、なかなか出来ることではない。先程、お芝居での植木くんに辛い評価をしたが、この団子屋の繁盛によって相殺していいと思う。むしろ植木くんらしいという意味では完全なる勝利だ。
ここまで書いて、まだ植木くんの魅力の正体に行き着いていないが、ひとつ考えられるのは「常に漂う不安感」である。「テーブルの端から3分の1くらいはみ出して、いまにも落ちそうに揺れている鉛筆」を想像して欲しい。その落ちそうで落ちない鉛筆が植木南央なのだ。安定した鉛筆はただの物体にすぎないが、「いまにも落ちそうな鉛筆」はエモーショナルである。団子屋生写真が笑えるのも、「もはやアイドルとは言えないくらいに団子屋になってしまっている」という危うさがあるからだと思う。そうした「危うい笑い」は、まるで無声映画時代のハロルド・ロイドやバスター・キートンのコメディ手法のようでもある。そして、ロイドやキートンが常に「紳士」であったように、植木くんもまた「淑女」である。握手に行った人は分かると思うが、植木くんは、いかにも育ちが良さそうな気品に溢れている。そうした紳士・淑女が「落ちそう」になるからこそ、スリルは倍化するのだ。最近、植木くんの面白さが微妙にエスカレートしているのは、彼女が美しくなってきていることと無縁ではないだろう。鬼に金棒とはこのことである。
繰り返すが、博多座の「お芝居」において、植木くんはそれほど高得点を出してはいない。しかし、団子がバカ売れしたことで、間一髪結果は出せた。いやいや、アイドルなんだから、それもまた立派な成果なのである。「博多座での爪跡」には違いないのだ。
この1年、植木南央推しの人が地道に増えているという。それは総選挙の結果にも示された。本人がもっと前へ出るようにすれば、まだまだファンは増えると思う。2年前のAKB48劇場出張公演の自己紹介MCで「アイドルらしいところをチラチラ見せて行きます!」と語ったように、植木くんはちょっと控えめすぎるのだ。そこがまた淑女植木南央のいいところでもあるのだけど、もう半歩くらいは前に出ていいと思う。植木くんからしか得られない「もやっとした笑い」を、ぼくらはもっと楽しみたいのだ。
(つづく)ヒカ40マン モウリス@ニコ生NEX ZEROモウリス@ニコ生NEX ZERO 『村重杏奈Regeneration
〜抹茶と卵と夜風の仕業〜』
村重がついに『夜風の仕業』を歌った。
村重のソロはこれで2回目だ。『九州7県ツアー』大分夜公演で『First Love』を演っている。あろうことか、チケットが当たらず見逃している。握手会で「悲しげ〜」と言われた。本当に悲しかった。村重が一発逆転するチャンスは、少なくとも2つある。センターとソロだ。そのひとつを確認する機会を逃したわけだから、大失態とでも言うべき運のなさである。
しかし、村重に合う曲は限られる。村重は決してレンジは広くない。いや、なんでも村重流にこなしてしまうという意味では狭くはないが、ぼくが言いたいのはその村重ではない。自ら「あり得ないほどかわいい」と本気ともギャグともつかないフレーズを放つ村重の、「あり得ないほどかわいい」村重のことである。
『Glory days』は、曲世界も衣装も、当時の村重のマテリアル感にぴったり合っていた。合いすぎていて、むしろ48としては不利とも思えるほどに完結していた。
『天国野郎』の作業員コスプレがまたどハマりだった。ちょっと大きめなヘルメットが可笑しみを生んで良かったが、本人はぶかぶかで踊りにくかったらしく、握手会ではその固定方法について夢中で説明してくれた。
『嵐の夜には』ではシリアスな表情に挑んだ。童顔のくせに、ムーディな世界観に違和感なくはまった。それは後に、フリーペーパー「10MATCH」の表紙へとレベルアップしていく。
一方で、村重にはどうしても回避できないウィークポイントがある。制服である。日本人女性の容姿に最適化するように異常進化した「制服」は、ハーフの村重にはあまりフィットしない。しかしそもそもAKBの衣装は制服を基調とし、『博多レジェンド』などはその典型だった。48的意匠の中で、村重の魅力は抑制されてしまっていた。
その点、『夜風の仕業』は村重への期待感を満たす要素に満ちている。ソロであること。生歌であること。少女らしい衣装。メルヘンな世界観。一般に知られるイメージとは真逆だが、本来は彼女のド直球なベクトルである。
慣れないソロに、激しく緊張しているのがありありとわかった。サビの歌詞も間違えた。でも、村重のポテンシャルを確認するには十分なステージだったと思う。『夜風』の村重を褒めることは、富士山を美しいと言うくらい躊躇することかもしれないが、良いものは良いとハッキリ言うべきだ。それくらいの底力を見せてくれた。
底力と言えば、『指原莉乃座長公演』の村重も、もっと評価されていいはずだ。あの芝居の中に村重がいること自体が、どれだけ作品世界の醸成に寄与していることか。あの物語が滑稽な絵空事であることを、HKTメンバーの中では、村重がもっとも保証しているように見えた。そうした指摘がまったく聞かれないのは、むしろハマりすぎていて、特別なものには映りにくいからかもしれない。でも村重は、決して弁当の中の漬け物ではなく、卵焼きなのだ。箸休めなんかではない。
そう、村重は卵料理のようなのだ。洋食にも和食にもなる。そして、オムライスというメインディシュにもなり得る。ただ、調理法が少し難しいだけだ。たかが卵と思うと、すぐに崩れたり焦げたりしてしまう。でも、ふわとろな村重は、もうそこまで来ていると思う。難波仕込みのダンスも絶好調だ。
村重が無類の和食好きであることは有名だ。抹茶、スルメ、大根おろし。高級なものは好まない。中華料理店の餃子より、1個50円の餃子が好き。おじいさんの作る野菜はもっと好きなようで、それを話すときの楽しげな語り口は、なんともかわいい。そして最後にこれだけは念を押しておきたいが、頭脳の回転がめちゃくちゃ速い。ぼくが握手会で投げるパフォーマンスや芝居に関する抽象的な批評を、彼女は瞬時に的確に理解する。ぼくが全部を言い切らないうちに「うん、わかってるよ!」「あ〜それは嬉しいね〜!」と被せてくる。その回転の速さをMCなどでもっと自在にコントロール出来るようになったら、グイグイ明太子時代とは違ったバラエティーメン村重として再生するだろう。そしてその兆候は、すでに出始めている。
でも、とりあえずいまはじゃんけんを頑張れ。
(了)