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高架線のカフェテリア

#1585『山崎怜奈論 Break a leg』前編 2022年6月13日(月)13:01 TOKYO FMの生放送にて 山崎怜奈、乃木坂46卒業が発表された。 彼女がその決断に至る迄の3年間を振り返ると共に、これからの山崎怜奈の航海にエールを。 (2021.9月改訂版) 人気アイドルグループ『乃木坂46』を大きく2つに分けると、それは「選抜・アンダー」という枠組みになるだろう。「選抜」という存在は主に「メディア組」でTVのレギュラー番組、そして音楽番組に呼ばれる組のこと。そして「アンダー」はそれ以外での活動、または選抜の代打出演を担当する。だが、その根底を覆したメンバーが居る。それが山崎怜奈である。これまで「選抜=メディア組」であった定説を、アンダーである彼女がひっくり返したのだ。彼女は如何にして今のポジションへと辿り着いたのか。その歴史を紐解いて行く事にする。 そんな山崎怜奈は約3年前、 乃木坂46を辞めようと決意を固めていた。 山崎怜奈。1997年5月21日(25歳) 東京都出身。慶應義塾大学卒業。 乃木坂46第2期生。れなち・ザキさん。 2022年7月17日を以て乃木坂46を卒業。 2013年3月、乃木坂46第2期生オーディションに合格。だが当時は研究生からのスタート。自分のキャラじゃないけど客観的に人気が出るのは「アイドルらしく」居る事。その為の努力は何でもした。時に同期から「ザキはあざといね」と言われる程に。彼女もまた王道アイドルを目指していた。そして2年後に正規メンバーへと昇格出来たものの、アンダーでの恒例のポジションは3列目の一番端。それでも頑張ろうと思った。大好きな勉学もちゃんと努力すれば頑張った分だけ結果は必ず付いてくる、そう信じてたから。そして2017年3月、念願だったアンダー初フロントに選ばれた。握手会でも全30部をフル完売する事が出来た。ようやく乃木坂の活動に少しだけ自信を持てた瞬間であった。 そんな矢先のこと。 2018年1月アンダーベストAlbum「僕だけの君」の個別握手会。その全会場で全完売を達成したのは寺田蘭世・山崎怜奈の2名であった。そして、同年4月の20th.Single「シンクロニシティ」にて寺田蘭世は選抜復帰。だが、山崎怜奈の名前は呼ばれる事は無かった。乃木坂に入って、初めて完全に心が折れた。自分に出来る事は何でも取り組み、握手会で結果も出したのにその努力は報われず目の前のボーダーを越える事は出来なかった。何が正解か分からなくなった。ただ思うのは「私は乃木坂に必要のない人間なんだ」という自己否定。同期の渡辺みり愛に泣きながら相談した事もあった。眠れぬ夜も続き、悩んだ末に出した答えは「卒業」の選択肢だった。それを運営にも伝え許可を貰い、当時大学3年生であった為、一年後の就職活動に向けて情報収集や資料を集める程その決意は固まっていた。そして2019年、乃木坂46の4th.Album「今が思い出になるまで」ではいずれの収録曲にも呼ばれず。その頃には悔しさより「参加してないのに宣伝だけしてる私って何なんだろう」と虚しさだけが漂っていた。そして気付いた。私は乃木坂でもなくアンダーでもない"じゃない方"なんだと。 だが救いの糸が舞い下りる。2019年5月、ひかりTVにて初の冠番組「乃木坂46山崎怜奈 歴史のじかん」がスタートした。この番組の話がなかったら、卒業発表していたと語る。趣味にしていた歴史の番組MCを担当出来る喜び、そして何よりこんな私を必要としてくれる番組スタッフへの恩返しがしたいと、一回一回の収録の準備を寝る間も惜しんで取り組んだ。番組は一年に渡って続き、終了後も同スタッフと共に「乃木坂46山崎怜奈とおはつちゃん」がスタートし徐々に山崎怜奈=MCとしてのイメージが定着する。 そしてここから、 彼女の大躍進の足音が鳴り響く....

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    #1592『山下美月論 Day by Day』

    どんなスピードで追いかけたら
また君と巡り逢えるだろう....
    今、彼女の日々を振り返る。

    山下美月。1999年7月26日生まれ(24歳)東京都出身。2016年9月4日「乃木坂46第3期生オーディション」に合格。2024年5月12日の東京ドーム公演を以て乃木坂46を卒業。

    小学3年の頃からアイドルに興味を持ち始めた。その夢への一歩とレッスンを始めたのは中学1年生の頃。だが思っていた以上に過酷なレッスン。自分は向いてないと気付き13歳の彼女は女優系の事務所に所属した。演技レッスンと並行し何百回もオーディションを受けたが結果は出せないまま、気が付けば中学3年になろうとしていた。夢は諦めようと事務所を辞め高校進学に備えた。だが2年間の芸能活動分の学業を1年で取り戻す事は容易では無く高校受験に失敗した。何もかも中途半端な自分自身が嫌いだった。かつ芸能活動をしていた事が学校で噂となり人間関係は破綻した。気が付けば完全に孤立していた。ある日の放課後目にした教室の黒板には「悪意の寄せ書き」その光景は絶望だった....
    第二希望の高校へと進んだ彼女は無個性を演じた。目立ってまた「生意気」と思われないよう集団の中の一人であろうとした。もう絶望は見たくないから。そんな彼女が唯一くつろげるのは大好きなアイドルのYouTubeを見てる時だった。そんな普通の学生生活。でも時に「私大丈夫かな?」と不安に駆られた。ふと鏡に映る姿を見た時「今楽しいのかな?」と思うようになった。自分の色を消して生きている本当の心は泣いていた。もしずっと憧れてたアイドルになれる事が出来たら人生変えられるかもしれない。二度目の夢を叶えるべく高校2年の彼女が最後のチャンスと応募したのが「乃木坂46第3期生オーディション」だった。決め手はその数ヶ月前に開催された「オーディション希望者セミナー」での白石麻衣の「乃木坂は新しい自分に出会える場所です」という言葉だった。

    私は、ここで生まれ変わるんだ....

    そんな覚悟で挑んだ乃木坂46第3期生オーディションは総数4万8,986人の中から12名が合格。17歳の彼女は乃木坂46になった。翌朝の芸能ニュースでも話題となったが同時に不安になったのが学校での評判。だが実際の教室での反応はごく普通で寧ろ乃木坂の話題が上がる事はなかった。後日乃木坂の活動の為に転校する事になった。その時初めてクラスメイトから沢山のエールを貰った。そうあの日の無反応は彼女を気遣ってのものだった。みんな分かっていた、みんな応援していた、アイドル山下美月を。

    乃木坂46の活動が始まった。長年描いて来た夢はここにあった。だが「本当の私は何色なのか?」と模索する日々が続く。どうすれば愛されるアイドルになれるのか、どうすれば理想のアイドルになれるのか。同期の3期生たちと切磋琢磨しながら試行錯誤の日々が続いた。体調を崩し3ヶ月の間乃木坂の活動を休業した事もあった。正直辞めようかとも考えた。そんな時、自分を心配してくれる多くのファンの手紙が届いた時、涙が溢れた。
    もっと誰かに頼ってもいいんじゃないか
    もっと弱音を吐いてもいいんじゃないか
    どんな自分も受け入れて生きて行こうと
    私は支えられて生きてる、そう思えた。

    乃木坂46では表題曲センターを3度経験した。アイドルの活動と並行して演技の仕事も増えて行った。特に2023年は体力的に極限のスケジュールに追われる日々だったが、アイドルと役者業の両方を熟す日々は精神的にはバランスを保てた。アイドルは自分の色を見てもらう一方、役者はその色を消して役の色に染まる仕事。そんな真逆の日々は彼女に生きがいをもたらした。毎日映画を観る様になった。合間で演技のワークショップにも通った。ドラマの撮影が終わっても居残り他の共演者の立ち振舞いを学んだ。もっと多くの作品に呼ばれる役者になりたい、次の夢を描いた。
    2020年辺りから卒業を考える様になった。でもこれからは私達の世代が中心になり頑張って行かないといけない。だからそれは直ぐにではなくタイミングは事務所と相談し決めようと思った。2023年に2冊目の写真集の話が来た時は断ろうと思ったが翌年の卒業に向け取り組む事にした。今年に入り乃木坂の活動がより一層愛おしくなった。3期生がグループの先頭となり沢山の後輩も出来た。悔いはないと心から思える様になった。色んな事があったけど乃木坂46の自分は大好きだった。そして心から思える、こんな私を好きになってくれた全てのファンの皆さんありがとう。

    山下美月の7年8ヵ月と9日。
    彼女が歩んだアイドル人生は、
    どれだけの時が流れても
    永遠に過去形にならないヒロイン。

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