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AKB48グループ新聞瀬津真也

 木下百花の卒業について  今夜21日の横浜アリーナ。彼女にとって最後の大舞台。偶然にも我々の関係者席の前の花道で、踊ることが何度もあった。純度100%でコンサートを楽しんでいる様子は、8月の神戸でも見られた姿。卒業が決まり、吹っ切れたメンバーによくある光景だが、それが百花さんだと、思いはひとしおだ。それは、7年のアイドル生活が、紆余曲折だったからだ。  AKB新聞9月号でラストインタビュー。  「毎週辞めたいって思ってた。自分がバグっていた時期は、メンバーもスタッフもファンのことも、何回『殺したい』って思ったか(苦笑い)。誰に何を言われても、励まされても、褒められても『死ね』としか思わなかった」と明かした。やさぐれたなんて生半可なレベルじゃない。「トゲしかなかった」と認めた。  14年の年末。第1回AKB新聞アワードで、「自分らしい生き方で走ったで賞」を受賞してもらった。当時、トロフィーを投げ付けるわけでもなく、悪態をつくわけでもなく、とても真っ当に受賞してくれた(笑い)。ただ、時折、どこか心ここにあらずのような節もあった。その話を振ると「うわーっ、思い出しました。あの時は、ご迷惑をおかけ…まではしてへんとは思うんですけど、私、仕事にはマジメに取り組んでたんで。でも(心は)ヤバかった? はい、トゲしかなかった時期でしたから、目だけは死んでたと思います(苦笑い)」。  そう、百花さんは、根がマジメなのだ。  「変人に憧れて、でも、理想と現実のギャップもあったんです。自分の理想に偏るファンの人が押し寄せてきて、現実とのギャップについていけなくなって…(心が壊れていった)」。素がマジメだからこそ、悩むし、本物のプッツンにはならないし、なれない。  心の底では「死ね」と思っていても、真摯な態度で賞を受賞してくれていたのだろう(笑い)。そんな風に溜め込んで、翌15年に長期休養をした。「1カ月以上、いや、もしかしたら2、3カ月あったかも。その間、毎日ずっと同じコンビニのレトルトのキーマーカレーだけを食べ続けたんです。味なんて全くしなくなるんですよ。真っ暗な部屋にこもり続けて、感情すら何も沸かなくなってました」。  このくだりを初めて聞かされて、私とNMB担当村上記者は「そこまで追い詰められていたのか」と絶句した。  そんなどん底で、ある日天井を見つめながら、我に返ったという。「自分終わってんなって気づいた。それで地獄からはい上がれた。そうしたら、菩薩になった感じで(笑い)。だから、今は、当時のことは、本当に申し訳ないって思います。迷惑しかかけてなかったです」。  素直に非も認められて、心にゆとりもできた。後輩の面倒見まで良くなっていった。思春期を乗り越えて、大人になったということなのか。どんな表現が適切かは本人にしか分からないが、とにかく良い方向に変わることができた。  「あの時にそのまま辞めてたら、私、本物の廃人になってた。だから、あの時に辞めなくて本当に良かった。私、まともな人間、優しい人間になれて卒業できるのが、一番ありがたいんです」。  「アイドルはずっと嫌だった」と言いながらも、「NMB48は好きとかいう感情ではなくて『私』なんです。『私の人生』。だから、人生に関わってくれた人は本当に大事」と表現した。メンバー、スタッフ、ファンにとって、これ以上にうれしい言葉はないだろう。  百花さんは、ここまで深いNMB愛を抱いて、卒業する。だから、この夜。「最後に泣いたらウソくさいから、絶対に泣かへん」と決めていながらも、全メンバーからの寄せ書きという、ベタなサプライズにも、あっさりすぎるぐらいに、ボロ泣きした。  「絶対に泣いて終わりたくない ! 」と涙をぬぐい、鼻をむちゃくちゃ吸って、再度強がって歌ったはずの「青春のラップタイム」でも、またもや号泣。これまでの、どの卒業メンバーよりも、泣き腫らした。  「丸くなったと言われるのが嫌」と本気で悔しがっていた。でも、心の底は昔の「死ね」どころか、幸福感でいっぱいだったはずだ。  終演後の面会では「(AKB新聞の記事)ありがとうございました。あの取材、本当に楽しかったです」とお礼を言われた。ついさっきまで観覧席でもらい泣きしていた私と森本記者が、その言葉に必死に堪えたのは言うまでもない(笑い)。  私は思います。あまのじゃくな百花さんが本気で涙したのは、NMBでの7年間で優しい人間に成長できたという、何よりの証しだったのではと。あの涙こそが、卒業証書だったのではないでしょうか。  長文になりすぎました😭

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