とりとりのトーク
トーク情報とりとり ひょんひょん 見城さんが23日をもって、来年まで755をお休みされるとの事。日頃は、恐れ多すぎて見城さんにコメントをすることは出来ないので、ただただ毎日トークを拝読するに留めておりましたが、一旦の区切りの積りで、見城さんの数々の名言の中から一つ、私なりに教えて頂いた事として書き記して置きたいと思います。
見城さんはよく「他者への想像力」が無いとご指摘される事があります。いきなり振って来る人生相談や、何の背景の説明もない数々の質問等、いかにもネタで入れてくるコメントもあれば、本人は真面目に聞いてる積りというのもあります。
明らかにふざけている様なコメントは別にして、本人は至って善意で、真面目に聞いているというケースがあります。こういう場合、私なら適当に答えてやり過ごすか、あるいはスルーしてしまいます。恐らく大多数の方はそうするのが普通なんだと思います。見城さんはそういう人達にこそ、他者への想像力が足りないと、ビシっとコメントされます。さらに「日記に書け」とか「自分のトークに書いておけ」という風に。
私はこれを、コメントを入れる時への相手への気遣いが足りないという意味だけの説教だとは思っていないんです。だったら、見城さんは気遣いが足りないって言いますから。そうではなくて、わざわざ「他者への想像力」という言葉を使っている訳ですから、他人への気遣いとは訳が違う筈です。
では、何なんでしょうか?
見城さんは我々に、そもそも他者とはどういうものか?というのを教えてくれた上で、その他者との対峙の基本を教えてくれているんです。
他者と他人はどう違うのか?詳細は抜きにして平たく言うと、他者とは、私にはまるっきり理解も想像も出来ない相手だという事です。
他人はある程度想定出来る相手です。つまり共通点が多い。似たような感性で、似たような文化背景で、似たような道徳観を持っていると想定出来る相手です。こう言ったら喜ぶだろうなあ、こうやったら怒るだろうなあと、わざわざ考えなくても、ある程度想定出来る相手です。つまり、半分自分と対峙する様なものです。単に「自分ではない」というだけで、ほとんど自分の分身と対峙する様なものです。だから、他人というのは交流する時に、いちいち想像する必要がないんです。ほとんど自分なんですから。
しかし、それでは自分から一歩も抜け出る事はありません。独り善がりのままで、なんの成長もありません。
「言葉や態度さえ丁寧にしておけば、取りあえずOKだろう。だって、自分だったらそうだから。」
「これは同意してくれるだろう。だって我ながらとても上手く出来たから。」
そういう前提で他人に接した時、他人は「大人な態度」でもって、あるいは、「空気を読んで」それなりに相手をしてくれます。
それで問題なく生きていけるなら結構です。幸いなことに我々の社会はそれでもそれなりに生きてはいけます。でも、独り善がりは変わりません。
では、話す相手が、自分のまるっきり想像出来ない存在と想定した時、どうするでしょうか?
相手の事が少しでも分かる様に出来るだけ事前に調べます。対峙した時には、相手の様子や反応を相当気に掛けます。
「この人はこれを言うことで、一体私に何を言おうとしているのだろうか?」
そうやって、相手に一歩踏み出すこと。それが、自分の殻から一歩踏み出す事になります。
見城さんは、石原慎太郎氏の小説を丸暗記して対面したり、五木寛之さんが起稿されたもの全てに感想の手紙を送ってみたりと、まさに全力で「他者への想像力」を傾けて来られた方です。
その見城さんが、今や想像力を使う必要もないお立場であるにも関わらず、我々にも全力で想像力を駆使して頂いています。
それが「他者への想像力」を持ていう言葉です。見城さんは、まさに、我々と他者として対峙することで、ご自身が一番大切にされている成長の秘伝を授けて下さっているんです。他者として対峙するのは、簡単ではありません。実際に相当傷付かれる事も多いですよね。それでも、二度と来るなと言った相手が少し変わって戻って来た時には、大変喜んで迎えておられます。そのまま去られた方も、いつか気づいて欲しいものです。
古今東西、人々はどういう時に「奇跡が起きた」というのか? それは、他者が到来した時です。755がSNSの奇跡と呼ぶなら、見城さんが我々の前に「他者」として到来したからを置いてほかはありません。
見城さんに叱られた方々、大変羨ましいです。私はまだそこにすら辿り着いておりません。
次に戻って来られる際には、この日記から卒業して、見城さんにコメントの一つも入れられる様になっていたいと思います。とりとり 見城徹見城徹 ⬆︎ ここまで理解してもらって、涙が溢れました。僕の真意は[他者=外部の人]の意味です。言葉も違う。貨幣も違う。即ち思考形態を全く異にする人ということです。ですから想像力を振り絞らなければ関係出来ません。しかし、それを[他人]と取って頂いても全く構いません。自分と他人との思考はそれだけ隔たりが存在することはしばしばあります。
「編集者という病い」(太田出版/集英社文庫)の序章に[外部]という言葉を使ってそのことは書きました。
僕は自分のかけがえのない命を生きています。755のそれぞれもかけがえのない命を生きています。それが奇跡的に交錯する。そのためには、言葉を捜し出すとんでもない格闘が必要です。有難う。