
ケントのトーク(他者への想像力を駆使した言葉で考える!)
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「パッションとは、受難を乗り越える情熱」
見城さんが西野亮廣さんのYouTubeにてお話しされていた。
見城さんがお話しになるからこそ、この言葉には重みと深みがある。
YouTubeを拝見した時は、そんな感覚だけでうまく言葉にできなかったが、もっと正確な言葉で捉えたい、言葉にしなければ自分はダメになると、数日狂ったように考えていた。
プロイセン王国時代のドイツの哲学者、革命家、経済学者にカール・マルクス(1818-1883)という人物がいる。
科学的社会主義(マルクス主義)を打ち立て、社会主義や共産主義、労働運動に強い影響を及ぼした人物だ。
そんなマルクスは、人間を「受苦的存在」だと定義した。
人間は自然の一部で身体を持つがゆえに、物理的な制約である「痛み、病、限界」を受け、それを感じ取る能動的、感情的な存在であるという世界観だ。
しかし受苦や受難は受動性だけではなく、そこから「情熱」や「他者との共同」へ繋がる力だとしている。
まさに見城さんがお話しされていた「パッションとは、受難を乗り越える情熱」に繋がる。
元々「耐える、受ける」という意味を持つラテン語の「patior」が、「Passive(受動)」、「Passion(情熱)」の語源とされていて、その点からも受苦や受難が情熱とは切り離すことができないものだということがわかる。
「憂鬱でなければ仕事じゃない」、「暗闇の中でジャンプ」、「苦しくなければ読書じゃない」など、多くの見城さんのお言葉にも通底すると僕は思う。
さらに言うと、恐怖の裏返しから徹底的にトレーニングをして試合後に勝利の雄叫びを上げたモハメド・アリも、制限の中で素晴らしい日本語の文章表現になる俳句も、死を前提に生まれてきた人間の生も、受苦的存在と言えるのではないだろうか。
受苦や受難が「情熱」のみならず、「他者との共同」へ繋がることにも触れておく。
人間は受苦的存在としての限界を、一人では克服できない。他者との共同体や協働を模索し、それが人間を社会的存在(類的存在)にしている。というのがマルクスの主張だ。
しかし、マルクスは受苦の連帯こそが社会共同体の基礎になるとも言っているので、甘い関係やもたれ合うということは本当に関係し合っているとは言えず、本当の協働や共同体にはなり得ないだろうと僕は考える。
受難を乗り越えた情熱を持てる人間同士は本当の関係を築けるし、そういう人間が内臓を擦れ合うような関係を築けるのだと思う。
僕はここにも見城さんを見た。
マルクスは「受苦的存在」の他にも、人を「活動的」、「対自的」な存在と言っている。
「活動的」とは、自然を変革する生産活動のことで、アクティブと言い換えることができる。行動とか努力と言い換えることもできると思う。
「対自的」とは、自分自身を客観的な対象として捉えることで、それらを構成する要素には「意識・反省・自由・自己否定」などがある。
これらは見城さんのお言葉「自己検証・自己嫌悪・自己否定」にも通ずる。きっと人の本質とはこういうことなのだ。これがなければ成長も、進歩も、情熱も何もない。
「対自」という言葉は、「対自的階級」という言葉にも使われる。自身の立場を自覚し、組織的に団結、闘争することができる労働者のことだ。
いわゆる革命を起こす立場だと僕は考えていて、意味合い的には「資本家階級」と相対する言葉だと思う。
結果を出し続け、多くの方から尊敬を集める見城さんは、一般的には資本家側に見られていると僕は思う。
しかし見城さんは安住せず、常識を破り、新たにルールとゲームを作る。
それが王道になれば、自ら作ったものでも何度も破壊し、また新たにルールとゲームを作る。
僕の中では、ルール作りやゲーム作りは革命と同義。
見城さんと同じ時代を生き、見城さんの姿勢やスイング、伝説の物語をリアルタイムでこの目で拝見できるのは、僕にとってこの上ない幸せである。
正確な言葉を獲得することは本当に難しい。
考えれば考えるほど、自分や世界の薄汚さや生ぬるさに目がつく。
そんな中食べた箱根そば[本陣]のきつねそばは、やけに僕の心に沁みた。
「きつね」の甘味、塩味、油分のバランスが凄まじく、驚異の美味しさでした。



