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一般に嘘をつく事は悪い事であり、嘘つきは責められるべきだが、嘘をつかざるを得ない事情のある場合は、それを理解し許す必要がある。 「心が無い人」の問題はまさにそれであり、さらに「心が無い」という事自体も本人の責任ではなく、これを責める事はできない。 人間の精神は極めて多くの要素から複雑に構成されており、だからこそ「完全な人間」は概念でしかなく、誰もが何かを欠落させたまま生きている。 だから「心が無い人」がいてもおかしくないし、彼らを特別視して差別する必要もない。 「心が有る」ことは人間にとって必要条件でしかなく十分条件ではない。 さて、 「心が無い人」から「心とは何か?」の問題が浮上したが、「心」は恐らく《想像界》の産物である。 だから《想像界》の精神だけの人は、自分の「心」に振り回される。 同時に周囲の人も、コロコロ変わりゆくその人の「心」のあり様に、終始振り回される。 「心」が人間精神の《想像界》の産物だとすれば、それは実体のないイメージであり、移ろいやすく、他人の影響を受けやすい。 そんな「心」を調教しうまく飼い慣らすために《象徴界》の精神が存在する。 例えば安易な同情心はトラプルの元だが、《象徴界》でそれを律すれば「社会正義」にもなり得るのだ。 「心が無い人」がいるのと同時に「心だけの人」も世間には存在する。 「心だけの人」は同情して親切にしてくれる一方で、急に心変わりして冷たくなったりする。 「心だけの人」は自分の心のあり方を客観視できず、自分の「心変わり」も認識できない。 人間の「心の移り変わり」を律するのが《象徴界》の精神で、ありていに言えばモラルである。 モラルはあくまで「心」がベースになっており、「心」をより良く活かすためにモラルが存在する。 だから「心だけの人」はモラルを欠き、「心が無い人」は心とモラルを欠いている。 ラカンが提唱した三界を、《想像界》=心の世界、《象徴界》=モラルの世界、とあえて日常語に置き換えてみる。 そして「心が無い人」は、心もモラルも否定し、その精神は第三の《現実界》に依拠している。 この《現実界》に当てはまる言葉を日常語から探ると、《現実界》=身体、がしっくりくる。 あえて言えば、人間の精神は「心」と「モラル」と「身体」の三要素からなっている。 「心だけの人」はモラルを欠き、「心が無い人」は心とモラルを欠き、そして「身体としての精神」によってのみ生きている

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    種まき人生」
     最近、ある放送局が自社のキャッチフレーズに「種まき宣言」という言葉を使っているのをよく耳にします。

     これは、「誰からも愛される素晴しい放送局という花を咲かすために、まずはその種を撒いていこう」という放送局の姿勢を言葉にしたものだと思いますが、この言葉を聞くたびに「なかなか良い発想だなー」と感心しています。

     私のお寺では、近年「光明寺だより」という新聞を発行したり、テレフォン法話やホームページを開設したり、あるいは法話会やコンサートを開くなど、さまざまな行事を実施していますが、これらも言ってみれば、親しまれるお寺、本来あるべきお寺という花を咲かすためにまいている種だと言えるでしょう。

     時折、「光明寺だよりをいつも興味深く読んでいます」と言って頂いたり、あるいはご門徒のお家の仏壇が浄十真宗らしいお飾りになっているのを見かけると、まいた種からわずかながら芽が出始めたのかなと、本当に嬉しく思います。

     何をするにもそうでしょうが、花を咲かそうと思えば、まず種をまかねばなりませんたとえば、目指す大学に合格するために受験勉強をしますが、これは合格という花を咲かすために受験勉強という種をまいていると言えます。

     あるいは、親が懸命に子育てをしますが、これも我が子が立派な人間という花を咲かすためにまいている種です。

     時には昨夜、飲みすぎたという種をまいたために、今朝頭が痛いというあまり嬉しくない花を咲かすこともあります。

     こうしてみますと、私たちの人生はすべて「種をまいて花を咲かす」という道理によって動いているということがよく分かります。

     これを仏教では「因果の道理」と言います。もちろん、まいた種がいつも素晴しい花を咲かすとは限りません。そうでない時もあればまったく花を咲かさないということもあります。

     しかし、自分でまいた種である以上、どんな花になろうとも、それを引き受けて生きていくという覚悟がなければなりません。

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    私たちは、よく思い通りにならないことや不都合なことが起きると、「あいつがあんなことを言うからだ」とか「あんな余計なことするからだ」と、すぐに他人のせいにしてしまいますが、これは因果の道理から言えば、見当違いな見方だと言えます。

     我が身の上に起こることは、すべて自分のまいた種だと受けとめていくのが因果の道理ですから、どんな時でも、決して言い訳をせず、他人のせいにせず、すべて自分で背負い、わが責任において果たしていくということがなければなりません。

     このように因果の道理は私たちに、この人生の厳しさを教えてくれると同時に、「私の人生に何が起ころうとも、すべて背負って生きていきます」という誠にたくましい生き方を教えてくれるのです。

     また、この因果の道理で大事なことは、まいた種が花を咲かすためにはどうしても「縁」の助けが要るということです。

     いくら立派な種であっても、種自身の力だけでは花は咲きません。

     花を咲かすためには、その種を十に埋め、肥料や水をやり、空気に触れ、太陽の光を浴びなければなりません。

     その土や水や太陽といったものが縁と呼ばれるものです。

     この縁はどれ一つ欠けても花は咲きません。

     それを仏教では「諸法因縁生、縁欠不生」と言います。

     そこで、咲いた花の立場を考えて見ますと、こうして花を咲かすことが出来たのは、水のおかげだ、土のおかげだ、太陽のおかげだなと、この縁を「おかげさま」と受け取ることが出来ると思います。

     これは私たちの人生も同じことが言えます。「あなたの人生にどんな花が咲こうとも、すべておかげさまと頂きなさい」ということを教えているのです。

     そのようなことを詠った歌があります。「この秋は雨か風かは知らねども、今日のつとめに田草とるなり」という歌です。

     歌の意味は、「今年の秋はひょっとして台風や大雨に見舞われ、今育てている稲が十分実らないかもしれないが、今は唯々稲の成長のために田草をとっている」ということでしょう。

     この歌の作者は、実りの秋という花を咲かすために、今、田草をとるという種をまいているのですが、「この秋は雨か風かは知らねども」と歌っているように、実りの秋を迎えられるかどうかは「縁次第」だと受け止めています。

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    もし、順調に実りの秋を迎えることが出来た時は「縁のおかげだったな」とそのご縁を喜び、万一台風や大雨に見舞われ、不作の秋になった時は、「いかに努力をしても縁の助けがなければ何にもならないんだな」とあらためて縁の大切さに思いをいたす。
     すべてがおかげさまの世界の出来事だと受け止めています。
     こうしてみますと、因果の道理で動いている私たちの人生には二つの大事なことが示されていると思います。

     その一つは「私の人生に何が起ころうとも、すべて我が身に背負っていきます」ということです。

     そして今一つは、「私の人生に何が起ころうともすべておかげさま」と受け取っていくということです。

     ともすれば、よいことは自分の手柄、悪いことは他人のせいにしてしまう私たちですが、そうではなく、よいことはおかげさま、悪いことは自分の責任と頂いていく。それがこの人生を歩む上で忘れてはならないことです。

     かく言う私も、そのことを深く踏まえて、お念仏の花の咲くお寺を目指して、これからも種をまいていきたいと思っています。

      浄土真宗本願寺派 光明寺

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    御 教 歌

    わするなよ まかぬたねなら はえもせず

    まいたたねなら はえるものぞと


     蒔かぬ種なら生えもしないが、蒔いた種なら必ず生えてくる道理を忘れないようにしていきたいもの。
    このようにお示しの御教歌です。

    本日の御教歌では、因果の道理についての教えです。

    種を蒔かず実が生ることはないように、何もせず果報を望んでも無理なことで、原因がなければ結果は生じないものです。

    御指南に

    「されば善悪ともにまいた種なれば、はゆるといふことと決定(けつじょう)なるべし。」

    「善につけ悪につけまいた種は、必ず生えてくるもの。」

    さらに

    「親をうつこぶしは、影まで親をうつ。善も悪も響(ひびき)の音に応ずるが如(ごと)し。善因善果悪因悪果(ぜんいんぜんか・あくいんあっか)。」

    「親に振り上げたこぶしは、何時までも自分の身体、心に痛みとして残るものであるように、善も悪も必ず報いがくるもの。」

    このように、善因善果・悪因悪果は世の中の道理であることをお示しです。

    さらに御指南に

    「一善を行ずれば福至らずと雖(いえど)も、自(みずか)ら禍(わざわい)遠のく。一悪を行ずれば禍未(いま)だ至らずと雖も災害自ら近づく。」

    「ひとつの善を行なえば、福にすぐ至らなくても禍が自然と遠のいていき、ひとつの悪を行なえば、その場で禍に至らずとも災害自ら近づいてくる。」

    このように、世の中の全てのものには「因果の道理」があり、これから外れたものはありません。

    天に向かって吐いた唾は必ず自分に返ってくるように、また自分の書き記した文字は夜真っ暗闇になっても残っていくように。

    ですから、自分の言動にも必ず因果の報いがあることを知って、日々を過ごしていくことは大切なことです。

    そのことをお示しの御教歌であう。


      小牧清立氏 blogこころのものさしより

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    <1,宝>

    232 またかれが身体によって、ことばによって、またはこころの中で、たとい僅かなりとも悪い行為をなすならば、かれはそれを隠すことができない。隠すことができないということを、究極の境地を見た人は説きたもうた。このすぐれた宝が<つどい>のうちに存する。この真理によって幸せであれ。

    〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉

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    ブッダの教えを素直に実践して四果を得た人々のことを聖者と呼びます。究極の境地を見た人々、つまり聖者はブッダ以外にも多数存在したことを示しています。

    悪い行為というのは、身体だけでなく言葉によっても心の中であっても、悪行であります。法律に反する犯罪だけが悪い行為ではありません。そのことは誰でも分かっていますが、悪事は必ず露見します。隠すことは不可能なのであります。悪を作りながら悪ではないと思い悪の報い(露見など)がないと思っていても、悪事を隠し通すことは決してできないのであります。因果の道理は歴然としており、少しの歪みもありません。

    その真理を聖者たちは実際に見たというのであります。究極の境地とは、真理を実際に体験した者だけが見えるものでしょう。悪を為すものは堕ち、善を修めるものは昇るという根本的な摂理が原因結果の法則すなわち「因果の道理」であり真理の一つであります。本詩はまさに善悪の報(報い)は業報(ごっぽう)の理と呼ばれ三時(すぐに、あるいは近い将来や未来に受ける報い)に現れてくることを説かれたものであります。

    この宝は集い(サンガ)の内に在るというのは、サンガの一員として修行すればこの真理を必ず知り得ることになります。修行の最初にこの真理を習うからであります。信じようと信じまいとこの真理は不変の理であり、この因果応報ほど非情なものはありません。まことに容赦なくある日突然襲ってまいります。これが報いであると知っているものは聖者以外にいません。聖者でないものが軽々しく「これは何かの報い」だと思うのは勘違いも甚だしいのであります。場合によっては現在の法律でも名誉毀損として罰せられるかもしれません。聖者のみがそれを見れる(知れる)ということだけを記憶しておいてください。