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まるちゃん

#583『AKBが居た10年。』 2005年、時代の寵児がTOBを繰り返し世間を騒がせ、ハードゲイ芸人がお茶の間を沸かせ、秋葉原のメイド喫茶がマスコミの注目を集めていた。 そこに、余りにも無謀な挑戦を始めたアイドル達が居た。今では信じられないと思うが「アイドル」という言葉自体が過去の産物となっていた。 強いて言うなら、その名は「地下アイドル」としてのみ機能しており、TVでアイドルたちの姿を見る事は殆ど無かった。だから、彼女達の登場もまた地下アイドルの一つとして紹介されていた。今度の秋元康プロデュースは「TVでは無く、劇場主体で活動する」。その試みにマスコミは、秋葉原ブームに便乗した後出しじゃんけんだと薄ら笑いながら、その先に見える確実な失敗を描いていた。その名前さえも正しく認識されず、メンバー達は多くの屈辱を笑顔のまま受けて来た。名も無きアイドルは、各マスコミへ売り込みに出掛け、毎日毎日相手にされず、大人達に必死に頭を下げていた。そんな得体の知れないアイドルを見て、目の肥えた大人達は手渡されたサンプルCDを聴く所か、机の片隅に投げ捨てていた。 全ては、逆行の船出だった。 全ては、屈辱の毎日だった。 全ては、希望なき連続だった。 それが、AKB48である。 その後も、死に物狂いの日々は続き、 その中で一筋の光明を掴み、 幾重もの紆余曲折を経て5年が過ぎた、2010年。 世間は「AKBブーム」に包まれていた。 「ポニーテールとシュシュ」はアイドルファンの男性だけでは無く、広く女性にも支持され、その年の「第2回選抜総選挙」翌日のTVではその模様が取り上げられ、「ヘビーローテーション」はカラオケランキングの1位を独占し続け、「前田敦子・大島優子」の名は、全国の若者たちに広く知れ渡り、彼女たちのテレビやCM出演は爆発的に増え、雑誌の表紙を飾る事も頻繁になり、AKBを見ない日は無いとまで世間に言われる様になった。 そのままブームは加速を続け、多くの姉妹グループも誕生、様々なイベントやサプライズで世間を驚かせ、そして多くの卒業と加入を繰り返し、さらに5年が過ぎた今年2015年、AKB48は10周年を迎えた。 あの頃の加熱的なブームは定番へと変わりつつ、世間で「アイドル」というワードはもはや過去の産物では無くなった。だけど、そこに一抹の不安を感じてしまう。このまま定番で居続ける事が出来るのだろうか?もしかしたらAKBはこのまま、時代の波に埋もれて行くのかもしれない。また10年前のあの頃の様に、誰の目にも触れなくなる日が訪れるのかもしれない。 だけど、 どんなに辛い時だって、 どんなに悲しい時だって、 どんなに忘れ去られたって、 そこに、AKB48は居る。 秋葉原の小さな小さな劇場に、 AKB48は居続ける。 99%が変わってしまったとしても、 何も変わらない確かな1% それが、AKB48である。 AKBが居たこの10年。 街並みも、人の温もりも、 平和を愛していた世界も、 すっかり様変わりしてしまった。 だけど、AKB48は これからも変わらないでくれ。 これからも変わらず、 ファンの側で輝いていてくれ。 AKB48が居る時代を共に歩めて、 本当に幸せだった。 AKB48の頑張る姿を側で見られて、 本当に勇気付けられた。 そして始まる、AKB48の11年目。 これからも側で見続けよう。 これからも厳しく見続けよう。 夢の続きをこれからも楽しみに、 過去のAKBに負けないよう、 今日から一歩一歩、 また明日へと旅立とう。 AKB48は、永遠に続く青春。

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まるちゃんのトーク
トーク情報
  • まるちゃん
    外山大輔(トヤマダイスケ)外山大輔(トヤマダイスケ)

    突然のニュース速報に釘付けになる。
    ついに死刑が執行された。

    あの日確か僕はまだ中学生で恐らく終業式だった記憶がある。勉強など全くしなかった僕は普段通り寝坊し遅刻して学校へ向かった。最寄駅まで着くと何やら物騒な雰囲気。消防車やら救急車が数台駅の周りに停車していて、「あー人身事故かな」程度に思った。これは地下鉄動かないな、良い遅刻の理由になったな、ととりあえず徒歩で学校に向かった。学校までの距離は約3駅程度。徒歩で行けば30〜40分くらいかな、と思いとぼとぼと歩いた。当時まだ中学生の僕は携帯はもちろんポケベルだって持っていなかった。なので家にも学校にも連絡できずそのまま向かったのだった。

    学校というのは今思えばとても閉鎖的な場所だった。学校にいる間は、外のこと、世の中の情報が全く入ってこない。今のようにスマホもタブレットもない時代だから当たり前だ。しかしクラスに1人は何故かタイムリーな情報を持っている奴が必ずいる。学校に到着してからしばらくしてそいつから「毒ガスが散布されたらしい」という情報がクラス中に回り、テレビのある教員室(職員室)にみんな詰め掛けた。
    自分の怠慢な性格のおかげであの朝の通勤通学時の惨劇を避けられた、と少し感謝した。
    そしてその日は確か終業式だった事もあって昼前には全員下校となった。私立だった事もあり、周辺県から電車を乗り換えて通学してくる友人が多くいた。自分は下校時もまた同じように徒歩で帰った記憶があるが、友人達はあの日ちゃんと電車で帰ったのか、今度同窓会でもあったら聞いてみよう。

    あの日から駅のゴミ箱は完全に撤去され、警戒警備のポスターがあらゆる場所に貼られ、車内のアナウンスまで流れるようになった。次の日も電車で通勤通学する人たちはいつも抱かなかった感情を持って電車に乗っていたんだろう。

    何故いま執行されたのか。
    報道によれば残りの数名もまもなく刑が執行される予定のようだ。
    平成の大事件は平成のうちに片付けるという事なのか。
    ひとまずあの日の事を思い出して、被害に遭われた方々に改めて心よりお見舞い申し上げます。