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山田のトーク
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  • 山田
    山田

    見城さんの場合、やってきたこと、残してきた結果、作品、それがガキのレベルではない。

  • 山田
    山田

    気持ちはガキのころ、というか、自分の黄金期にずっと置いておかないといけないのだと思う。でも、やることはレベルアップさせていかないといけない。ゴーカートにいつまでも乗っている大人は、おかしい。ゴーカートに乗ってワクワクした気持ちを持ちながら、例えばF1レースに発展させていかないといけない。僕らは大人なのだから…。

  • 山田
    山田

    そして、そういう人間のところにはご褒美が向こうからやってくるんだろうな。頑張ろう。

  • 山田
    山田

    寝ます。追い詰められても、自分のスタイルは変えない。

  • 山田
    見城徹見城徹
    山田
    おはようございます。Newspicks 読みました。本を、どういう作品かと知識で論評するより先に、「この本から自分はどう学ぶか」「どう自分の人生に活かしていくか」と考える見城さんの姿勢は、ぜひ参考にしたいと思いました。水平に飛ばなかった一匹の駒鳥の、悲しみと絶望と罪悪感と、それでも自分は生きていこう、という決意が見城さんの経てきた人生と併せてひしひしと伝わってきました。後半も楽しみにしています。

    違います。「この本から自分はどう学ぶか」「どう自分の人生に活かしていくか」なんて作為的に考えて読書なんてしませんし、そんなことは一言も言っていません。たまたま読んだ本が心に染み入った時、それは実践の糧になる。自然に実践を支えることになる。実践に向かわせる知識の内実こそが教養なのだと言っているのです。つまり教養は実践を支える「思考する言葉」だと。ですから沢山の本を読んで欲しいです。その中にあなたを現実に動かさざるを得なくする人生の一冊が潜んでいます。

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  • 山田
    山田

    ちくしょう。書いていたのに消えてしまった。工場についてしまった。昼には必ず後半の感想を書きます。

  • 山田
    秋元康秋元康

    見城徹の読書は血の匂いがする。ただ、文字を追って「読了」と悦に入っている輩など、足下にも及ばない。書を貪り食ったものだけが知る恍惚の表情を浮かべている。著者の内臓を喰らい、口から真っ赤な血を滴らせている。認識者と実践者の違いほどに。

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  • 山田
    見城徹見城徹

    「深夜特急」は私自身何度も読み返し、人生にも影響を与えた本ですが、ここまで深く解釈された書評を見たことがありません。

    ⬆︎ News Picksの今回の僕の記事の編集者・野村君からのコメント。野村君、君が編集担当者だったから、この記事が出来た。君の編集者の能力は凄いよ。

  • 山田
    山田


    Newspicks後半の感想を書きます。

    まず、20代のわたしはモハメドアリをあまり知りませんでした。他人から、すごいボクサーだったんだよ、と聞いて、なんとなく知った気になっているというだけでした。ですが、見城さんの今回の話で、アリの凄さとそしてその内面がわかりやすく見えたような気がします。
    「俺は強い。俺は最高だ。俺は美しい!」というのは、極限の自己肯定であり、おそらく何ものにも代え難い快楽であり、それさえあれば、何もいらない。見城さんはいつもそこを目指されているんだろうなと思いました。
    その自己肯定の裏には、想像もつかないほど強大な内面の葛藤と闘わなければいけないし、他の誰よりも強い意志と、圧倒的努力と、強靭な覚悟がないといけないので、やはり並大抵の人間ではできません。自分はやるだろうか、挑戦するだろうかと、すぐ小さくまとまりそうになる自分に、いつも問う姿勢を忘れたくないなと思いました。

    そして石原慎太郎さんの文学に、描写に、セリフに、想像力を刺激され、しかもそれを想像の世界で終わらせずに見城さんは現実の世界を変えて、実際に圧倒的な結果を出しています。「シンクロした」とはいえ、作品を全文暗唱するほど異常な愛を注げるかと言われると、凄すぎる、ちょっと真似できないな、勝ち目がないな、と、打ちのめされる気持ちを覚えます。貪るような読書と想像力は現実を変える、という事実を、見城さんという存在自体が証明しているように思います。
    深夜特急に関しては、恥ずかしながらまだ読んでいません。ですので下手なことは言えませんが、自分の貨幣と言語が通じない場所に行く、という見城さんの例えは非常にわかりやすかったです。今自分が持っている貨幣と言語を何の疑いもなく日常で使っている自分のことを考えると、やはり自分が嫌になります。
    「旅」というものを、結局は自分の言語の中で終わらせるか、それとも危機感にまみれた外部に自分を晒す旅にするのか。
    読書もそうですが、すべては自分次第だと思いました。どんなにいい作品でも、自分の言語の中で読んでいれば一向に現実は変わらないような気がします。
    見城さんの読書体験を読んで、私ももっと作品を深く読んで、きちんと本質を捉え、そしてそこからもう一歩、作品から死に物狂いになって引きずり出してきた言葉を、実践で使っていきたいと思いました。本質を捉えた気になっているのが一番怖いし、そういうのは実践でも、結果として必ずボロが出る気がします。私はどうもそういう傾向があるなと思ったりもしました。見城さんの読書体験をいつでも思い浮かべ、自分と比較し、自分はちゃんと死に物狂いで言葉を引きずりだせているか?曖昧さを憎み、正確に引きずりだしてきた言葉を使い、正しい行動と選択をできているか?これからもそういう自問を忘れたくないなと思いました。読書の本質を獲得するにはどうするか。それが伝わってくる非常に素晴らしい記事でした。ありがとうございました。