マルチェロこぱとさんリトークありがとうございます(-_^)
こぱとのトーク
トーク情報こぱと マルチェロマルチェロ リーダーの冠を被って踏み入れた名古屋の地で待っていたのは、歓迎とは程遠いバッシングの嵐だった。
バッシングは、大組閣に端を発するものだ。それぞれの箱、それぞれのチームが持つ色が破壊されることへの恐怖、憤り、その鉾先は移籍、兼任メンバーへ容赦なく向けられた。
特にネットの住人による批判、攻撃は激しく、その刃は確実にメンバー本人に達していた。もはやスルーとか、そんなレベルでは無い。
宮澤に限って語れば、主に下のような内容である。
・リーダーの兼任はおかしい。辞任しろ。
・強烈な違和感だ。SKEに合わない。
・SKEを変えるとか言っているが、まずSKEとは何か学べ。
・パフォーマンスが悪い。振りが遅れている。
・上海一本と言ってたのに、日本に帰って来た。上海に帰れ。
なかなか辛辣である。
ネットは批判が充満する場所であるが、この批判は確実に現場レベルで起こっているように感じた。
その中でも、最大のポイントは宮澤がリーダーに就いたことへの是非である。
なぜ中西優香という頼れるリーダーから、よそ者の宮澤に変えるのか?なぜSKEを知り尽くす者から、全く知らない者へチームを託す?これだ。
おそらく自分がその時SKEを応援する立場であったなら、同じ疑問に混乱したと思う。
今となれば、既に中西が卒業の準備を進めていたことが明白であるが、当時はそんなこと知るよしもなかったのだ。
兎にも角にも、最悪の状況で、新チームの公演「制服の芽」が始まる。
評価は悪かった。一期組は別として、チームS本来の鬼気迫るパフォーマンスの欠片も無く、振りはばらばら、MCはぐだぐだ、枯葉を歌う渡辺には溜息が飛び、SKEファンの多くが、ついにはこの言葉を口にした。
「チームSは終わった。」と
私も含め宮澤佐江を応援する者にとっても、それは辛いことであった。自分の愛する者が戦犯となったのだ。
そして、そんな日々はしばらく続いた。
実は当時、宮澤はこう語っている。
「48グループは、ファンの皆さんが劇場に通って、どんどん進化していく私たちを見て下さる“ファンの方が私たちを成長させてくれる”というのが、AKB48ができたときからの醍醐味というか、モットーです。
なので100%というより、“今の私たちにしかできない、全力の作品をお見せすることができたかな”って思ってます。でももしかしたら、ずっとSKE48を見ていたファンの皆さんにすれば、厳しい目で「うーん…」って思う方もいらっしゃるかもしれません。」
宮澤佐江は先を見ていた。
その後も批判の声は、上がり続けるが、次第に変化が生まれる。
チームの結束が見え始めたのだ。
一期から昇格したてのメンバーまで、年齢も経験もばらばらのチーム、しかしそこに家族のような関係が形成しつつあった。
公演では、綾巴、李苑ががむしゃらな頑張りを見せ始め、それに他のメンバーが鼓舞され、中西、佐藤がまとめ始めた。背後には、珠理奈の巨大な存在。
楽屋では、誰よりもうるさい宮澤が、子供のように騒ぎたてる。
「チームSのメンバーといる時が、1番幸せ」雑誌のインタビューや、ぐぐたすにそんなコメントが、並び出す。
次第に批判の声を、仲間の声が掻き消した。
しかし、チームのパフォーマンスが、目に見えて良くなり、新たなチームの魅力が見え始めた頃、発表があった。
中西優香と佐藤実絵子の卒業発表である。
2014年12月24日クリスマスイブのS公演は静まり返った。
私は、新チームSが変化していくなかにも、確信が持てないことがあった。
それは宮澤が真にチームSのリーダーとして、認められているのかということだ。
メンバー内では、ほぼ完全に近い信頼関係が構築されている。しかし、
珠理奈、真那、中西を支えて来たような、生粋のSKEファンが、はたして宮澤を認めているのか?
いや、まだ認めていない、がその時の私の見解。
年が明けて、1月25日のAKB48のリクアワ「セットリストベスト1035 2015」、冒頭に戻る。
7位 奇跡は間に合わない
のテロップが映し出され、イントロに乗って飛びだして来たのは、
宮澤、珠理奈、そして・・・・
中西優香がそこにいた。
宮澤は、SKEとチームSを支えて来た中西を、AKBファンが見守るあの場に引き連れた。
中西はAKBからSKEに移籍した元祖である。
それは彼女に対する、宮澤なりのリスペクトであり、感謝の表明であったと思う。
あの時の3人の弾ける笑顔が忘れられない。
きっと中西優香を支えて来た方々にとっても、胸熱くなる瞬間であったと思う。
私にとって、2015年1月25日は、宮澤佐江が本当の意味で、チームSのリーダーとなった日である。
なぜか分からないが、あの3人があの場に飛びだして来た瞬間に、私の中につかえていた何かが消えて無くなったのだ。
そしてその日、中西、佐藤が抜けても、チームSは絶対に終わらないのだと確信した。
それは宮澤佐江の、2012年11月1日のSNH移籍から27ヶ月に渡る、長く苦しい戦いの一つのピリオドに思えた。こぱと マルチェロマルチェロ 宮澤佐江がチームSのリーダーになった日
今年のAKB48のリクアワ「セットリストベスト1035 2015」、私はライブビューイングで、コカコーラを飲みながら、まったりと鑑賞していた。
ベスト10あたりから、「そろそろかな」とドキドキが始まる。何にドキドキかというと、大好きな宮澤佐江がユニットセンターを務める「奇跡は間に合わない」の登場にである。
リクアワでこれが何位に入るのか、これが毎年気になる。さらには、昨年出演したみちゃが、某焼肉屋に転職したので、誰とトリオを組んで出てくるのか?興味深々であった。
順位が7位のところで、ようやくその時が来た。
「来たーーーっ!!」と興奮したその瞬間、
ステージに元気よく飛び出して来た3人。
佐江、珠理奈、そしてもう一人は・・・・
宮澤佐江、25才、現チームSリーダー、SNH48チームSⅡとの兼任。
AKB482期生として、グループ入りして以来、その中核として活躍して来たことは、今さら語るまでもない。
現在、宮澤は、SKE48のフラグシップチームであるチームSのリーダーを務める。
公演出演こそ減っているものの、主に外仕事をこなしつつ、コンサートがあれば先陣に立ち、ファンの期待を裏切らない貫禄のパフォーマンスを見せている。チーム内はもちろん、他チームメンからも慕われ、今やSKE48にとって欠かせない存在である。
しかしながら、宮澤佐江のSKE48における活動は、かつてゲンキングと称された、笑顔が絶えず垣間見えるような、そんな順風満帆なものではなかった。
宮澤のSKE48での活動を語るまえに、私達はいくらか時をさかのぼらなければならない。
2012年8月24日、AKB48は、念願の東京ドームコンサートを開催。「1830mの夢」、この夢の舞台において、宮澤のSNH48移籍が発表された。
SNH48への移籍は、サプライズ発表であったが、当人に事前に打診があり、最終的には宮澤自身の決断によって、なされた事である。
決断の理由は、壁の存在。選抜常連でありながら、立ち位置はいつも後列、AKBと言って顔が思い浮かぶのは、常に前に立ちメディア露出する超選抜。フロントに行きたくても行けないという壁に、彼女はもがいていた。
そんな矢先に、持ち掛けられた話。
チャンスでもあるが、賭けでもある。6年かけて作り上げたファンを日本に置いて、新たな地へ向かうのだ。
選んだ道はご存知の通り、宮澤佐江は立ちはだかる壁に向かって地を蹴った。
2012年11月1日、宮澤佐江SNH48へ移籍。
新天地でのデビューを前に暗雲が立ち込める。それは日本と中国の関係の悪化である。
お披露目に向けて動き出したはいいが、そのお披露目に出れない可能性がどころか、見通しすら立たない状況。
そんな中、宮澤は素人同然の、SNH1期生を相手に奮闘する。彼女達に、がむしゃらにチームAを追いかけた、あの頃の自分を見たのだ。
2013年1月12日、SNH48の華々しいお披露目の壇上に、宮澤佐江、そして同時に移籍した鈴木まりやの姿は無かった。
奇跡は間に合わなかった。
その後も就労ビザが降りない状況が続く。移籍により国内の仕事も激減、寝る間も無かったAKB48での生活が一変し、ただ家に居る毎日が続く。
「まだ日本に居るの?」周囲からの声も、焦りと不安に拍車をかける。
一体いつまでこの生活が続くのか?
上海にいるあの子達の顔が浮かぶ。
会いたい、話したい、
一緒にステージに立ちたい…
嬉しい出来事もあった。自宅籠城生活に入る頃、1月27日に開催された「リクエストアワーセットリストベスト100 2013」において、ユニットセンターを務め、自身のトレードマークでもある「奇跡は間に合わない」が、数あるAKB楽曲の中で、2位という順位を貰った。
ここで貰った、ファンからの愛、励ましが、この空白の数ヶ月、宮澤の希望をかろうじで繋ぎとめたのだ。
2013年4月28日『AKB48グループ臨時総会 〜白黒つけようじゃないか!〜』において、突然、宮澤のチームK兼任が発表された。
これは上海において、ビザの関係で活動出来ずにいた宮澤と鈴木を、秋元総合プロデューサーが見かねての救いの一手である。
しかし、その発表を聞く宮澤の顔はいつになく険しかった。
2013年6月8日、AKB48第5回選抜総選挙において、宮澤佐江は第10位の順位を得る。
そのスピーチにおける彼女の表明、
「私はSNH48一本でいかせていただきたいと思います。」
これは完全に宮澤の独断によるもので、関係者を驚かせるものであった。
まだステージにも立てずにいる、こんな中途半端な状況で、AKBに戻るなんてかっこ悪い、という彼女らしい考えである。
2013年6月24日、宮澤佐江のAKBチームK兼任は解除された。
そこから3ヶ月、季節は秋、ついにその日が来る。
2013年10月1日「最終ベルが鳴る」公演で、宮澤佐江は、念願のSNH劇場デビューを果たす。
家族が見守るなか披露したのは、チームK時代に汗を流した思い出の演目、「支え」ではとめどなく涙が溢れた。
移籍からすでに11ヶ月、政治と国の壁に翻弄された日々は、一つの区切りを迎える。
11月には、SNH48結成1周年の広州における、大規模なコンサートにも参加した。
SNHでようやく活動の幕が開いた宮澤に、国内で大きな仕事が舞い込む。
2014年1月8日〜3月31日に上演される、地球ゴージャスの舞台「クザリアーナの翼」への出演、女優志願の宮澤にとって、最大のチャンスである。
広州から日本に戻った宮澤は、すぐに稽古へ参加、公開された舞台では、共演する一流の舞台人に負けず劣らない、素晴らしい女優の顔を見せた。
SKEチームS兼任が発表されたのは、その舞台の合間、2014年2月24日のAKB48グループ大組閣祭りでのこと。
佐藤実絵子:宮澤さんッ!
宮澤佐江:え? 誰??
実絵子:SKE48の佐藤実絵子です!
佐江:あ、おっ…おうおう、どした?
実絵子:宮澤さんッ!!! チームSのリーダーです!
佐江:本当に? うそでしょ?
会場に入らずにボディケアを終えて、街を歩く宮澤の携帯電話への急報であった。
宮澤佐江はチームS兼任、リーダー就任を受諾する。
なぜ一度蹴った国内兼任を受諾したのか?
一つにSNHのステージに立てたこと、それとSNHが己の力で動き出した事が大きい。特にも信頼出来るダンスコーチ、マー先生の存在が、宮澤を安心させた。
もちろん長らく不在であった日本人2人の、居場所を空けておくほど、SNHも余裕は無かったのだろう。実際2人は、終身名誉メンバー的な存在なのかと思う。ビザが取れないという時点で、上海は真のホームグラウンドにはなり得なかったのだ。
それともう一つ、舞台への意欲が大きい。クザリアーナでの経験が、宮澤の心にどかんと居座る。それは、まぎれもなく新たな夢であった。
2014年4月4日、AKB48グループ春コンinさいたまスーパーアリーナ「〜思い出は全部ここに捨てていけ!〜」SKE48単独コンサートで、宮澤は、中西優香からチームSリーダー旗を受け取る。
「RESET」での大粒の涙に、客席が霞んで見えた。
同年4月25日、新チームSの制服の芽公演が開始。宮澤が日本で公演に出るのは、実に1年半ぶりの事であった。
ここまでが宮澤佐江のSNH移籍から、SKE48公演デビューまでのいきさつである。字にすれば、大したこともないかも知れないが、活動が出来ないという、タレントとして最も深刻な状況が、凄まじいストレスとなって襲ったことだろう。
そういう意味で、国内復帰は、ファンの私にとって朗報であった。しかしながら、満を持して乗り込んだ、SKE48での活動は、まさに試練の日々だったのだ。