ログイン
詳細
高橋慎一
投稿画像

降り続ける深更の雨音に浸りながら、久々に坂口安吾『堕落論』再読。74年前に著された『堕落論』…時を経てコロナ禍に翻弄される今に至っても、いや増して腑に落ちてくる。 『半年のうちに世相は変った。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかえりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。ももとせの命ねがわじいつの日にか御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかづくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。』 安吾の放つ想いは、この書き出しにほぼ集約されていると思う。人間の性とは、まさに『堕落』であり、それを抑えるシステム、例えば、礼節、大義、イデオロギー、などに代表されるような『秩序』が存在することで、かろうじて堕落しきることなく踏み止まっていられるのだと。 たとえば『武士道』について安吾は述べる。忠君の仇を討つために真の復讐の気持ちを持って大義に殉じた臣下とは、果してどれだけいたのだろうかと。安吾は建前論に立脚した格式張った秩序より、寧ろ『昨日の敵は今日の友』といった『楽天性』こそが、日本人の元来備えてきた本性なのだと指摘し、『武士道』とは人性や本能に対する禁止事項であり、人間に本性にしてみれば、まさに対極に位置するものであると再定義してみせる。 『あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。』 さらに安吾は、太平洋戦争下の日本において、堕落は無かったと断言する。『焼け野原において娘達の笑顔を探すのが楽しみであった』というように、当時の東京においては人々は決して堕落せず、『泡沫のような虚しい幻影』の『驚くべき愛情』の中で暮らしていたと記す。安吾が『幻影』と名づけたように、堕落のない人間社会などけっして長続きしはしない。特攻隊の勇士も、使徒たる未亡人も、あるいは天皇でさえも、『虚しい幻影』にすぎないと安吾は述べている。しかしそれが幻影であることに悲観などする必要はなく、逆に真実の『人間らしさ』というものが、終戦によって立ち上がってきたのだと、希望を見出だしている。 『六十七十の将軍達が切腹もせず轡を並べて法廷にひかれるなどとは終戦によって発見された壮観な人間図であり、日本は負け、そして武士道は滅びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ墜ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか。私はハラキリを好まない。』 戦争という惨禍が終わり、人間は人間の本来あるべき姿に立ち戻った。人間は堕落する。聖女も勇士も義士さえも堕落する。堕落とは決して悪いことではなく、堕落こそが人間を人間たらしめ、しかも人間を救う便利な近道だと、安吾は鮮やかに論じていく。 『人間だから墜ちるのであり、生きているから墜ちるだけだ。だが人間は永遠に墜ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、墜ちぬくためには弱すぎる。』 安吾の『堕落論』に貫かれた主張は、現代を生きる一人の人間として、まさに同時代のこととして受け止めることができる。自分自身の正しく『堕ちる道』を見つけること。自分自身の『武士道』、自分自身の『天皇』見出だすこと。幾度となく紐解いてきた『堕落論』だが、コロナ禍に苛まれる今こそ、『強かに堕ちる』ための道標たるべき書という気がしてやまない。

前へ次へ
高橋慎一のトーク
トーク情報
  • 高橋慎一
    高橋慎一
    投稿画像

    ふたりに決して届かない、こんな春の虚空に杯を捧げることになるとは。でも読み返し、そして読み返し、先達の言の葉に無限の活力を得て。いまこそ想う、文藝の力を。

  • 高橋慎一
    修治修治
    投稿画像

    辺見庸の「もの食う人々」と上原善広の「路地の子」は、自分に755を教えてくれた友人と自分に共通する愛読書だ。
    今から17、8年前に溝口敦の「食肉の帝王」が面白すぎて、夢中になって読んだのだけれど、路地の子もそれに匹敵する面白さ。
    2つの本に共通するのは、同和と食肉利権に絡む、当事者達やその周囲の人々の話し。
    こういった内容なので、当然、政治家やヤクザなども絡んでくる。

    もし読んだ事がない人がいたら「もの食う人々」「食肉の帝王」「路地の子」はかなりお奨めしたい。
    マジで下手な小説や映画よりも10倍面白いです。
    もっとも「もの食う人々」はすごく売れた本だから、読んだ人は多いと思うけれど。
    食肉の帝王や路地の子については、多分snsで今まで二度か三度程書いた事がある。
    ホント、それ位面白い作品です。

    自分の部屋のベッドサイドには、いつもブコウスキーやオースター、マラマッドなんかと並んで上原善広の本が数冊積んであって、読みたいと思った時に手を伸ばせば届く様になっている。
    ある時、その日も家でベッドに寝頃がって「路地の子」を読んでいたら、遊びに来ていた美容師やってる女友達が・・・

    「何をそんなに黙々と読んでるの?」と聞くので
    「同和と食肉利権の本だよ。面白いよ、読んだ方が良いよ」と言ったら
    「童話?なぜそんな子供が読む様なモノ読んでるの?」と言うので
    「・・・・・・・・まぁ、バカはほっとくか」と内なる声が口に出ていたらしく、聞き咎められて怒っていた。

    路地、同和、部落解放同盟・・・こういったキーワードは自分の出自に直結する。自分は部落の出だからだ。
    作家の中上健次の〝紀州サーガ〟や、フォークナーの〝ヨクナパトーファ・サーガ:Yoknapatawpha Saga)などが好きな人には、この2冊は特にお奨めしたい。
    中上健次、ウィリアム・フォークナー、ナサニエル・ホーソーンなどが好きな人は、上原善広の作品は気に入るんじゃないかと思う。
    自分は上原善広の作品は他に、被差別の食卓・被差別のグルメ・異形の日本人などを持っていて、これらも本当に面白い作品です。

    2
  • 高橋慎一
    見城徹見城徹

    [修治のトーク]の本と映画と料理とロシアについての投稿は空気が凜と張っていて美しい。評論とはこういうものだと学び、刺激を受ける。既に文学になっている。堅牢でアバウトさが一つもない。正確な言葉で自分を表現している。いつも、圧倒されている。トークを読んでいると何故か中上健次を思い出す。

  • 高橋慎一
    見城徹見城徹

    ↑ 僕が知る限りこの2つのトークが755を他のSNSと峻別している。凄いクオリティだ。それが無料で読める。

  • 高橋慎一
    高橋慎一

    ↑見城社長と修治さんのトークが
    こうして交錯するという奇跡

    755という場に希望を見いだして止まない。

  • 高橋慎一
    高橋慎一
    投稿画像

    降り続ける深更の雨音に浸りながら、久々に坂口安吾『堕落論』再読。74年前に著された『堕落論』…時を経てコロナ禍に翻弄される今に至っても、いや増して腑に落ちてくる。


    『半年のうちに世相は変った。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかえりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。ももとせの命ねがわじいつの日にか御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかづくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。』


    安吾の放つ想いは、この書き出しにほぼ集約されていると思う。人間の性とは、まさに『堕落』であり、それを抑えるシステム、例えば、礼節、大義、イデオロギー、などに代表されるような『秩序』が存在することで、かろうじて堕落しきることなく踏み止まっていられるのだと。


    たとえば『武士道』について安吾は述べる。忠君の仇を討つために真の復讐の気持ちを持って大義に殉じた臣下とは、果してどれだけいたのだろうかと。安吾は建前論に立脚した格式張った秩序より、寧ろ『昨日の敵は今日の友』といった『楽天性』こそが、日本人の元来備えてきた本性なのだと指摘し、『武士道』とは人性や本能に対する禁止事項であり、人間に本性にしてみれば、まさに対極に位置するものであると再定義してみせる。


    『あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。』


    さらに安吾は、太平洋戦争下の日本において、堕落は無かったと断言する。『焼け野原において娘達の笑顔を探すのが楽しみであった』というように、当時の東京においては人々は決して堕落せず、『泡沫のような虚しい幻影』の『驚くべき愛情』の中で暮らしていたと記す。安吾が『幻影』と名づけたように、堕落のない人間社会などけっして長続きしはしない。特攻隊の勇士も、使徒たる未亡人も、あるいは天皇でさえも、『虚しい幻影』にすぎないと安吾は述べている。しかしそれが幻影であることに悲観などする必要はなく、逆に真実の『人間らしさ』というものが、終戦によって立ち上がってきたのだと、希望を見出だしている。


    『六十七十の将軍達が切腹もせず轡を並べて法廷にひかれるなどとは終戦によって発見された壮観な人間図であり、日本は負け、そして武士道は滅びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ墜ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか。私はハラキリを好まない。』


    戦争という惨禍が終わり、人間は人間の本来あるべき姿に立ち戻った。人間は堕落する。聖女も勇士も義士さえも堕落する。堕落とは決して悪いことではなく、堕落こそが人間を人間たらしめ、しかも人間を救う便利な近道だと、安吾は鮮やかに論じていく。


    『人間だから墜ちるのであり、生きているから墜ちるだけだ。だが人間は永遠に墜ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、墜ちぬくためには弱すぎる。』


    安吾の『堕落論』に貫かれた主張は、現代を生きる一人の人間として、まさに同時代のこととして受け止めることができる。自分自身の正しく『堕ちる道』を見つけること。自分自身の『武士道』、自分自身の『天皇』見出だすこと。幾度となく紐解いてきた『堕落論』だが、コロナ禍に苛まれる今こそ、『強かに堕ちる』ための道標たるべき書という気がしてやまない。

  • 高橋慎一
    修治修治
    投稿画像

    ウイリアム・フォークナーの最高傑作(アブサロム、アブサロム! がソレだと言う人もいるけれど)〝八月の光〟の序盤で、妊娠した状態で男に捨てられたリーナ・グローブが、身重の身体でアラバマからジェファスンまで馬車にも乗らず、鉄道も使わずテクテクと歩いて来る描写がある。

    上で、男に捨てられた・・と書いたけれど、当の本人であるリーナはそう思ってはおらず、相手の男は先に別の町に行って、働きながら自分の事を待っている・・なかなか連絡が来ないのは何かの手違いがあっただけだ(と序盤では)考えている。

    それでアラバマから、相手の男が働いている様だと当たりを付けたジェファスンまで、そんな身体で遠路遥々歩いて来て、それを言った相手を驚かせたり、呆れさす。
    呆れさすのだが、同時に同情されたりもして、周りの人間からは『あんたの相手の男は、お目当ての場所に行ったって見つかりゃしないよ』と内心、思われながらも親切にもしてもらう。

    道中で馬車に乗せてもらい、その馬車の持ち主の男性宅に泊めてもらう。
    男性の奥さんはきびしい女性だったが、そんなリーナの事を〝バカな娘だ〟と思いつつも、自分で鶏を育てて、その鶏が産んだ卵を売って貯めたヘソクリをリーナに渡す。

    リーナは遠慮しつつも相手の好意を受けとり、次の馬車に乗せてもらう際に、商店に入って、クラッカーとチーズ🧀と鰯の缶詰(オイルサーディン)を買って、馬車の上でクラッカーにチーズと鰯を乗せて美味そうに食べるシーンが描かれている。

    以下はその描写
    ↓↓↓
    彼女は食べ始める。ゆっくりと、落ち着いて食べ、指についた濃い鰯の油を丹念に、心からうまそうに吸いとる。


    ここまで長々と書いたけれど、この日本人にとっては奇妙な組み合わせ・食べ合わせに思える〝クラッカー&チーズ&缶詰鰯〟というやつ。
    実はコレは料理やってた人間からすると珍しくもなく、酒を飲む際のツマミとしてヨーロッパなどでも、よく見られる食べ方なのだ。

    自分でも同じ食べ方はよくやるし、海外のオードブルのレシピ本や、ヨーロッパの他の作家が書いた物語の中にも、全く同じ食べ方が描かれている。

    755は一回の投稿で画像が一点だけだから次の投稿にアップするけれど、自分はこの食べ方を、アドリア海で捕れた鰯で作る、クロアチア産のオイルサーディンとブルーチーズでよくやる。

    クラッカーにオイルサーディンとブルーチーズを乗せて一口で頬ばる。
    口の中で鰯の持つ脂と、鰯を漬けていたオリーブオイル、ブルーチーズの濃厚な味とクセのある香りが渾然となって実に美味い。
    美味くてビールやウォッカ、ホワイトラムなどがよくすすむ。

    気になった方がいたら、同じ食べ方をしてみると分かります。
    コレはお酒が欲しくなる味だな・・という事が。

  • 高橋慎一
    修治修治

    昨日は友人と三丁目で天ぷら食べて、酒飲んで→ゴールデン街でさらに飲んで→歌舞伎町のインドカレー屋で〆にカレーを食べた。

    カレー屋に入ったら、インド人のオーナーがいて、インド人の商売仲間と食事しながらミーティングやっていた。

    自分と友人が食事をしていたら、そのオーナーから料理の差し入れが。
    「辛いよ!」と言ってたけど、すごく美味しいチキンの料理だった。
    たしかに辛かったけど。
    彼はスポーツクラブ仲間。

    美味しいカレーとお裾分け頂いた料理、ご馳走様でした。

    今日は朝の4時半にブルガリアの友人と電話で久しぶりに会話。
    東京は明け方の4時半、ブルガリアのソフィア(首都)は、まだ前の日の午後10時だった。
    だいたいモスクワ辺りと同じ位の時差だな。

    東京に来たら、自分のところに泊まれよ!と言っておいた。
    会えるのが楽しみだな♪

  • 高橋慎一
    見城徹見城徹

    1977年1月、中上健次の運転でロスアンゼルスからメキシコのティファナに向かった。途中サンディエゴのラホヤの海に面したイタリアンでランチをして、街を散策した。初めて見る西海岸の高級リゾート地は夢のような世界だった。サンディエゴは時間がゆっくりと流れ、暖かい日差しを浴びて沢山の人がランニングをしていた。それがジョキングというライフスタイルだとこの時に知った。メキシコとの国境を越えると豊かさから貧しさへ道も風景も一変した。夜のティファナは汚くて臭くて混沌とした街だったがエネルギーに溢れていた。中上健次はティファナを大いに気に入り、メキシカンたちと肩を組んでテキーラを飲んだ。40年前の新宮、ソウル、ティファナ。中上健次はその3つの場所によく似合った。

  • 高橋慎一
    高橋慎一


    中上さんを想う見城社長に感涙…

    だいぶ秋めいてきた新宿。昨夜は久々に新宿ゴールデン街『ガルガンチュア』へ。

    『タンコさん』こと石橋幸さんは、ロシア民謡の練達の歌い手。齢80を超えて、今宵もカウンターの奥に佇む。そして『ガルガンチュア』も、はや開店より50年を数えるとのこと。

    5、6人が席を埋めれば満席になってしまう、新宿ゴールデン街のカウンターの片隅で。『ガルガンチュア』のママさんが弟のように大好きだったという、中上さんのゴールデン街での暴れっぷりを、じっくりと伺った。コロナ禍で依然、客足も寂しげなゴールデンで、ママと語った中上さんの武勇伝に痺れつつ。余りにも贅沢な夜。

    『ガルガンチュア』を出てゴールデン街の三番街を歩きながら。中上さんと見城社長が飲み歩く。ふたりの面影をつい、幻のように探し求めてしまった。こんな、秋の夜こそ『枯木灘』を紐解きたくなる。