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makochinのトーク
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  • makochin
    見城徹見城徹

    もう、関わらなければいいことだ。自分の好意から発したことが自分を一番傷付ける。[自分はしてやっている]という思い上がりが良くないよね。

  • makochin
    makochin

    『真玉泥中異』は、「しんぎょくでいちゅうにいなり」と読んでください。この句は、景徳伝燈録にでてきます。『本物は何処に居ても異彩を放っている』というもので、己の不遇を嘆くことに警告を発しています。転じて、『他責的になるな』という警告でもあります。
     人間は須らく“縁”により生じ、縁あって居場所がきまります。つまり、何処に居ても“そこ”が晴れの舞台です。ですから“そこ”で輝いて居なければ“本物”ではないのです。言い換えれば、与えられた境遇をイキイキと生きて居る人が本物です。自分の評価は自分では出来ません。“今の境遇”に不満を抱かず全力を出していれば、自然と『随所で主となる』を実践していることに他なりません。随所で主となる心をもっている人を“主人公”といいます。舞台で馬の足を演じていても光るし、会社ではどんな制裁人事に遭おうと、配属先で輝きます。Sさん、4月の人事異動はショックだったのでしょう。しかし、それこそがチャンス。貴方の本物をだしましょう。これまでは部署が貴方を飾っていたのでありあなたのアウトプットはバブルだったのではないですか?左遷されたと思う、被害者意識や他責的な発想に変るようでは、馬子が衣装で殿様と勘違いされ、殿様という椅子の権威で評価されていただけではないですか?。本物の殿様は裸になっても殿様です。つまり、本当に実力が有る者は、どこに居ても主人公です。そして実力者に「あなたは何故輝いているのですか」と訊ねると、「そうですか。有難う御座います。しかし、どこにあっても全力で生きて居るだけですか、他人の評価を気にしたことはないので、輝いている自覚はありませんね」というような反応でしょう。つまり、『何処にあっても全力』『どこにあっても“足るを知る”』、それが出来ている人が“真玉”であり、泥の中でも輝いている人だと思いますよ。
     「暗いと嘆くより、自分が明かりになりましょう」それが“伝燈”の心です。

  • makochin
    makochin

    争 が賛美されている昨今、今一度“日本の心”である『和』を見直すことを真剣に考えなければならない時期が来ている。『和』は、決して“事勿れ主義”ではなく、相克状態を止揚した積極的で新しい対立解消の結果です。
     聖徳太子の十七条憲法の第一条に登場する“日本人”の“心”の在るべき姿を示した事が表題の『和以為貴』です。『和』は“和合”であり、全ての現象には“本質・真理”が投影されているので、両方を否定したり、片方に偏ることなく、対立を“和合”させて“本質を浮かび上がらせることこそを最優先とする考えで、現在のような未熟な知性からの単純な二元論(白か黒か)に陥らないことが大事です。しばしば、是々非々などという極論主義では、対立が構造化し、必ず“争い”がおきます。争いは“勝者と敗者”をつくり、最後は崩壊するというメカニズムを内包した縦社会へと向かいます。“和”は、言い換えれば“補完”であり、対立する意見から双方の良さを抱き合わせることで“平和(和らかく平な状態)”を建設します。“男と女”に対立があれば『人間』として和合されます。善と悪は“無”として和合されます。表と裏は、“一体、一如”として和合され、不可分不可同に帰結します。其の発想の原点が『色即是空 空即是色』です。『和』の発想は、単純に“足して二で割る”というような疑似一元論ではなく、『万法帰一』を拠り所とする、最小公倍数・最大公約数探しと言えば解り易いでしょう。男と女の例に準えるなら、最小公倍数が『人間』、最大公約数が『生命』と考えられますし、色即是空・空即是色の真理は貫かれています。金か精神か、頭か心か、古いか新しいか、・・・というような対立的な神様志向の偏った考えを捨て、両論を否定せず、肯定もしないという偏りのない『中正』を重視した生き方こそが“21世紀の日本人”であり、世界の対立の仲介者としての“あるべき姿”ではないでしょうか。

  • makochin
    makochin

    火に入るも真金の色転た鮮かなり』と云います。『真の実力とは、逆境にあって明らかになる力』です。本当の黄金というものは、火に焼けてもまったく色が変わらないように、人の真価というものも、災難にあったとき、逆境に陥ったときに明らかになるものです。

  • makochin
    makochin

    社員の『健康』は、常識外に過剰でない限り、労働時間や環境の問題ではなく、一人一人の社員の“働き方”の問題である。言い換えれば“やりがい”と“何でも話し合える企業風土”が大事なのである。人間は、それ程“やわ”ではない。1日12時間、300日働いたとしても、心身とも健康でイキイキしている社員は山ほどいる。その秘訣をインタビューした経験があるが、ヒアリングした全ての共通する話もあれば、何組かにグループ分けした方が良い話もあった。勿論、経営者としては、従業員を安全で健康な環境のもとで働かせるという安全配慮義務、健康配慮義務の認識は前提である。社員は“奴隷”ではないし経営者は“君主”ではない。前にも書いたが“経営とは、営みを経て目的・目標を達成させることである。言い換えれば、利害関係人の全てに対し奉仕するのが経営者の役割であり、労働者に甘く、株主にキツイとか、納税をしないとかは経営者失格である。勿論、納税を“誰に委ねるか”は経営者の裁量、戦略判断である。
    さて、ここいらで“質問”に対し“反対”を唱えた具体的な理由を述べよう。
    先ずは、病人や半病人を作り出す原因を潰しましょう。つまり、『企業組織』の問題として取組むべきで、個人と組織がWIN‐WINの関係構築をしましょう。つまり、個人と組織で目的を共有し、一人一人の目標達成を組織成員全員で助け合える構造と“その価値”を利害関係人の全てに共有させましょう。これは、『従業員満足の高い職場においてはストレス症候群にある患者が少ない』という事実があるからです。言い換えれば、一人一人のストレスマネージメントに配慮した『風土(文化)』を創造することです。
     次に、上司をカウンセラーにしない方が良いという背景には、『利害関係が構造化しているヒエラルキー社会では、上司は部下のカウンセリングは出来ないからである。言いたい事が言えない。上司は上司であるが部下でもあるという階級構造では、上司が部下の心身の健康に気を配るのは当然だが、『心因性の疾患の原因の多くは“上司”だからである。
     ですから、社員のカウンセリングは利害関係に無い“社外”の専門家が宜しい。もちろん、“偽”は困る。本物か偽物かは簡単にチェックできるので覚えておいて欲しい。先ず『社員は、人間は、部下は、上司は・・・』というように個性があり目的・目標が異なる社員を抽象化する専門家は“似非”と考えて間違いない。
    少々脱線したが、社員一人一人は、異なる個性があり、其々に強味・弱味がある。言い換えれば、それを活かす仕組みが重要であり、企業が選択枝を用意し、社員に選択権を与えるのがベストだが、社員の多くは自分の強味・弱味に気付いていない場合が多く、先ずは、“それ”を気が付く事が出来るようになる“教育”が必要だろう。人と仕事のベストマッチングは、生甲斐と生産性を向上させ、個人にも組織にも有利に働くのはことを思い出して欲しい。具体的な指示が必要な個性もあれば、目的や目標を与えるが方法については自分で考えたい個性もある。とにかく、組織は個性を殺させて生産性を下げるのではなく、個性を活かして生産性を上げなければ、何れに対する“貢献”も出来ないのだ。小さな会社であれば毎日が教育の機会ではあるが、教育すべき経営者に教育者としての能力が無ければ、欲深な社員の思いのままになる組織が出来上がり、遠く無い将来には崩壊し、最終的に悪は滅びるとしても、その前に善が崩壊する。
    最後に付け加えるが、一過性のニュースに対し、流行に乗るような判断をする経営者こそ問題であり、上司をカウンセラーにしようなど言う前に『風土改革』と『経営者自信のレベルアップ』をすべきだろう。理想は『一人が皆の為に、皆が一人の為に働ける補完組織であり、一人一人の個性・能力を活かして採用・教育・配置・評価・処遇し、目を共有し、理念を枠組みとして、全員一丸となれる生産性の高い編成を行ない、利害関係人全ての満足度を上げられる組織』の構築が経営者の仕事だろう。

  • makochin
    makochin

    質問:「人生に目的を持て、毎日の目標を達成せよ、と言われます。何とはなく解るのですが、毎日毎日、そんなことを意識していたら、一度しかない人生が、楽しく生きてゆけない気がします。それでも、目的や目標を持つべきでしょうか。和尚の法話では『一日一生』とか、『昨日は既に無く、明日は未だ無く・・・、今・此処に在るのみ・・・』というな話をしていましたね。しかし『4行日記』という本では、目的や目標、計画が大事だとかいてありました。何がが正しいのか解りたいのです。(松瀬**子)」
    ●最初に、世の中に絶対に正しい、絶対に誤っているということは無いでしょう。問題は自分に合うか合わないかであり、未完成な自分は変わり続けます。勿論、完成・未完成という二項対立も実際はありません。また、“楽”も“苦”も相対的で絶対的ではありません。 さて、勉強でも建築でも人生でも同じようなものです。
    例えば、全ての支えとなる基礎部分、実際に使われる躯体部分、それに価値を与える内外装部分であるがありますね。これは私たちの『脳の構造』と似ていますし、全ての生物が作り出す世界も、実はその生物の脳をモデルとした生理機能と相似しています。基礎や土台は、気質や潜在意識と称される生得的部分で大脳基底核以下の神経システムであり『身体』を指します。実用部分≒躯体部分は、大脳基底核に辺縁系が加わった部分で、生長過程で完成される部分で躯体工事にアナロジーできますし、洋風や和風、鉄骨だ木造だ壁加重といった目に見える“建物”部分で『頭』です。価値の部分は、大脳基底核+辺縁系+新皮質が相互作用で現象させている“家”というハードではなく、その中での営みである“家庭”というソフトを特徴付け『心』といえます。
     以上を前提に置いて、今、質問をしているのは、あなたの『頭』ですね。何とは無く解かる、という部分は感覚部分で『体』ですね。そして、解りたいという気持ちは『心』ですね。科学と言う限定的合理性の世界の学問、つまりは便宜的に還元するとそれぞれの部分には『役割(使命)』があるのです。しかし、人間は部分で生きているのではなく『全身』で生きているのです。それぞれの機能を専門用語で言えば『性徴・生長・成長(全てセイチョウと読みます)』があり、其々の人に備わった器に応じて、社会との相互関係が特徴を付けて行きます。つまり個性が形成されます。生れた瞬間は『善も悪もなく無色』です。仏教的に言えば『無心』という完成された状態です。それを維持するにはどうすれば良いでしょう。それには先ず自分を知ることが基礎になります。その基礎の上で現実的な生活をおくり、価値ある人生としたいでしょう。
    私達は、それまでの自分の経験(実体験ではなく見聞きしたことも含む)から、楽しい、苦しい、幸せ、不幸などという気分を決めているので、今日の不幸は明日は幸福であったり、今日の幸福が昨日の不幸であったりと『相対規準』でしか解りません。つまり、過去、未来、他人などに囚われ、拘って、偏った考えで生き、己を主人として瞬間瞬間を生きていないと、相対評価の世界に毒されてしまい、「苦」の世界からは脱出できません。それが人間の『脳』の宿命です。
    しかし、『幸せ』を『大安心』と定義した釈尊は、苦の本質を発見し、幸せの本質に至る道を発明しました。その方法は、大疑心・小悟・大悟・悟後というように、修行(実際に生きてゆく)により一歩一歩、大目的に向かって歩いてゆくというものです。それらを、哲学的に表現すれば、『人生の目的は使命を果すことし、目的は具体的目標により構成され構造化された抽象的全体である』とすれば、人生とは、目標を達成することで目的を達成できる“時の集まり≒時間”と言えます。
    と言うわけで、先ずは自分を知り、目的を明確にして、目標に落とし込み、その生き方が身に着いたら、つまり潜在意識に生き方の地図が焼きついたら、意識の世界から目的や目標を忘れる、つまり潜在意識に落とし込むことで、一日を一生として『無心』に、『大安心』の心境で生きてゆけるのです。

  • makochin
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    削除されたユーザー
    この世の中には最低な人がいるんですね。 自分悪いことしてて人泣かせてるのにしらんぷり。本当にもう部活行きたくありません。 こんなところで愚痴はいてすみません、、、

    嫌いな人がいたら、どこが嫌いかを100個、書くんだ。そのうちに思い浮かばなくなる。そうしたら、読み返してごらん。大したことじゃないよね?そこまで嫌う必要がないことがわかる。

  • makochin
    makochin

    僕は、「私は、自分の人生をもっと私らしく生きられるはずだった。しかし、会社の社長や上司が許してくれなかった。by田端信太郎 1975-20XX」とお墓に刻むような人生を送りたくはないと、毎秒思って生きています。

  • makochin
    大石絵理大石絵理

    今、読者という荒野 を薄暗い部屋で読み終えました。読み終えてしまいました。
    残りのページが薄くなっていくほどに寂しくて、もったいぶって少しずつ、少しずつ、読みました。心に響いた文たちは、何度も繰り返して読みました。

    見城さんの言葉は、こんなに牙が剥き出しになっているのに、なぜか美しく、繊細に見えます。

    本の中に、編集者の武器はただ一つ、言葉だけだ。という一文がありました。
    文章を書くということは、誰も思いつかないことを書いて驚かせるよりも、誰もがどこかで感じているのにうまく言葉にできないことを、形にすることなんだ、と学びました。

    見城さんの男らしさを感じた一節があります。
    成績を下げてやると行った先生に、
    "この野郎、と思った。評価を下げたければ下げればいい。だが僕はこれからテストが行われるたび、その全てで100点をとってやる。"
    この感動と自分の情けなさの間に何とも言えない葛藤がうまれ、学生時代、日本史なんて人生で必要ないなどと言い訳をし、成績の悪かった私はなんてダサい学生だったんだろうと思いました。もしも戻れるのならば一生懸命やるのになぁ。そんなことは不可能だってわかっているんだけど。

    読者という荒野 は、見城さんの心がいちばん描かれていた作品でした。
    情熱、繊細さ、苦しさ、もどかしさ、切なさと、小さな喜びで溢れていました。
    いい意味で、重い本でした。見城さんのように。笑

    最後の一ページに、涙の跡ができました。世界で一番尊敬する人の心の中身を覗けたような気分になれたからだと、思います。

    生意気な感想を書いたけど、見城さんに怒られませんように。

    それでは皆様、夢で逢えたら。
    (まねしちゃった😝)

  • makochin
    makochin

    「そうだ。効果とは目的や目標に対しての評価で、目的や目標を持たなければ効果もない。坐禅は“無心”に坐るんだ。ただ坐るだけだ。だから効果などない。がしかし、変化はある。しかし、変化を目的・目標にはしない。それば坐禅だからね」「ところで、君は毎日、風呂に入るだろ?」と聞くと「まあ、ほとんど」と。「何故?」聞くと、「汗や汚れを落としてリラックスするためですかね」と言葉を選んで応えた。其の瞬間、彼は解ったはずだ。
     “心”を風呂に入れるのが坐禅でもある。汚れが落ちるか汗をかくかは坐り方しだい。しかし、毎日“埃”に塗れるんだから、坐禅が大事なんだ。
    禅語に『時時勤佛拭』というのがある。「時時に勤めて佛拭せよ」と読む。私の家ではトイレに書いてある。意味は「常に心の埃を払いなさい、そうでないと“清心”が“邪心”になりますよ」と解して良いだろう。言い換えれば、体と同じ様に、心も毎日、風呂にいれて綺麗にしておきなさい、というようなもの。