ログイン
椿原愛 (富山県産)のトーク
トーク情報
  • 椿原愛 (富山県産)
    見城徹見城徹

    想いは殆どの場合、届かない。しかし、ちゃんと届いていたことも稀にはあった。想うだけならこちらの勝手だ。人生の99パーセントは想い通りにはならない。それでも想う。1パーセントの奇跡を信じて。切なさを耐える。その時のために生きる。

  • 椿原愛 (富山県産)
    見城徹見城徹

    ↑ 凄く素敵な文章。僕は出版業を引退し損ねて72歳まで来てしまった。想いの通りにならないのが人生。仕事も恋も健康も。自分の気持ちなんて誰も理解してくれなくて当たり前。それでも最後の日まで生きてみる。そして、微笑みながら消えてゆく。最後の瞬間にきっと諦めがつくはずさ。色即是空、空即是色。その時、巨大な虚無に向かって声を限りにSay Hello!

  • 椿原愛 (富山県産)
    見城徹見城徹

    報われない想いがある。普段は忘れているが、ふと思い出してはやり切れなさに唇を噛む。多分、生きている内に報われることはないだろう。誰も悪くない。自分の想いが強過ぎるだけだ。関わらなければ良かったのだが、僕が僕である理由のためにも関わらずにはおれなかったのだ。自分のエゴイズムの産物だと解ってはいても、そんな報われない(と勝手に決める)想いを人は幾つも残して生涯を閉じるのだろう。泣けて来る。

  • 椿原愛 (富山県産)
    見城徹見城徹

    僕の嫌いな[夢]について初めて少し語ります。
    18歳と27歳の時、中学時代からの夢が実現しました。しかし、若さ故の意気がりか、ようやく手に入れたその夢を自分から手放しました。そこに安住したくなかったのです。今でも時々、後悔します。そして、34歳の時、熱狂の末に手に入れた夢は年を追うごとに色褪せました。つまり、それらは実現してみると自分の生きるモチベーションにはなり得なかっだのです。勝手なものです。
    今、僕は幾つかの夢を実現したと思っています。しかし、それらは実現した後、そうか、これが自分の夢だったんだと気付いたのです。僕には今、果たし得ていない夢が3つほどあります。一番大きなものは僕が生きている内はに実現しないでしょう。現実は苛酷で、一つを得るためには一つを失わなければなりません。残りの年月を考えると
    切なくなりますが、どれを優先するか?は覚悟を決めた選択の問題になります。人生は長いようで短い。73歳になってそのことが胸に沁みます。
    今日の絶望を明日の苛酷に。夢は実現した後にそれが本当に自分の夢だったのか吟味して語るものです。結論はきっと人生の最後の日にしか出ないものかも知れません。

    2
  • 椿原愛 (富山県産)
    見城徹見城徹

    短いパットは絶対に入らない。だから入らなくても、オーバーするパットを打つ。人生は一度切り。行き過ぎた方がいい。「過ぎたるは及ばざるがごとし」は嘘だ。

    3
  • 椿原愛 (富山県産)
    見城徹見城徹

    1970年11月25日は晴れていた。両親と妹が静岡県清水市の小糸製作所の社宅から神奈川県相模原市に買った小さなプレハブ住宅に引っ越して来て、僕も東京都目黒区柿の木坂の下宿を引き払って合流したばかりだった。僕は慶應義塾大学法学部政治学科の2年生だったが授業には殆ど出ることはなく、鬱々とした日々を実家で過ごしていた。三島由紀夫が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入して自決。衝撃的なニュースをテレビが映し出していた。呆然としてテレビに釘付けになった。その後のことは覚えていない。翌朝、自転車を飛ばして小田急相模原駅の売店で新聞全紙を買い、駅構内にある[箱根そば]のスタンドで「コロッケうどん」を食べたのだけは何故か鮮明に記憶に残っている。1970年11月25日は衝撃的な日だった。行為することは死ぬことだ。漠然とそう思った。
    1972年5月30日。奥平剛士、安田安之らがイスラエルのテルアビブ空港を銃撃。空港警備隊に蜂の巣のように撃たれながら自分の足元に爆弾を投げて自爆した。この2日で僕の青春は終わりを告げた。僕は狡猾にこの世界で生き延びる道を選んだのだ。三島由紀夫の死から54年。世界はこともなく僕の前に佇み、僕は73歳になって生きている。