日中復交前史
本日3月23日は、1960年の今日、社会党(当時。現・社民党)大会で浅沼稲次郎が委員長に選出された日です
老若男女問わず大多数の日本人にとって、日中国交正常化の立役者といえば田中角栄を想起するのでしょう。それはそれであながち間違いではありません。しかし、感情的な高揚感をどこにでも当て嵌めるのは日本人の悪癖で、いかにも自民党単独の功績のように(あるいは田中個人を賛美するにとどまる)受けとられるのではないかという不安も残ります。当時の田中は政治家として絶頂期だったから、なおのこと強調されているように思われますね
日中復交において田中が首相として外交面で重要な役割を担ったのは否定できない事実であるにしろ、それ以外の人々(たとえば当時の大平正芳外相、二階堂進官房長官など)の献身的な姿勢が少なからず偉業を支える力になったのは間違いなく、それは銘記されるべきでしょう。また、日本側だけの観点から、あるいは御都合主義的判断に終始する懸念もなくはないですね
日中国交正常化は、二国間の歴史に関する重要事項であるのみらず、戦後外交史上、巨大な里程標を示したものであったということを常に念頭におくのが基本的な姿勢としては正しいと思います
その観点から、野党の活躍も軽視できないですね
特に、社会党(当時)が果たした役割は大きいです
時代の先をとらえる鋭い認識、行動力が下地を作り、後の田中訪中に至る道筋を拵えたのだと言っても大袈裟ではありません
その後のすべての歴史にとって決定的に重要な意味を持つのは1957年(昭和32年)1月19日の第13回党大会ですね。それまでとっていた二つの中国を認めるという見解を改めて「北京の中華人民共和国のみを唯一の中国と認め、これと国交回復を目指す」という方針に踏みきったのです
浅沼稲次郎団長率いる社会党訪中使節団は、4月10日に羽田を出発し、12日には北京に到着しました。そして浅沼・毛沢東会談など有意義な成果を挙げたのです
それまでにも何人かの議員が中国を訪問していましたが、正式に党を代表した使節団が派遣されたのは歴史上初めてのことでした
それから中国と実際に国交を回復するのは15年後の1972年(昭和47年)、田中内閣成立から田中総理訪中まで待つことになったのです。その礎を築いたのは間違いなく浅沼・毛会談だったと思います
なお、田中訪中による復交における日中復交三原則は中国側の主張です
①中国は一つであり、中華人民共和国が中国を代表する唯一の合法政府である
②台湾は中国の一つの省であり、中国領土の不可分の一部であって、台湾問題は中国の内政問題である
③日華条約(日台条約)は、不法で、廃棄されなければならない
田中総理、大平外相、二階堂官房長官らは1972年9月25日に北京を訪問
田中角栄・周恩来両国首脳による日中共同声明が調印されたのは9月29日のことでした
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