削除されたユーザーそして、定義と言うのは人間が勝手に設定するものであって、そのものの本質を捉えているものではありません。くだいて言うと程度問題なのです。例えば鉛筆で考えると、鉛筆を少しずつ削ってゆき、残り3センチになってもそれは鉛筆といえるでしょう、では更に削っていき、僅かな芯に僅かに木がくっ付いているようなものになったら、それを鉛筆と呼べるでしょうか?おそらく呼べないでしょう。
哲学カフェ「生きる意味とは?」
トーク情報- RAM
RAM 削除されたユーザー生きている定義を考えてみると、科学的な理由(心臓がいているのか?など)が一番真っ当理由付けになるんじゃないかなーと思います。 あとは、自己認識の世界じゃないかなと。 ただ、その生きている事の証明となると、それは自分よがりな思想になってしまつので、そのステージでは他者の観測がどうしても必要になってくると考えています。 我々はひょっとしたら水槽に入った脳なのかもしれませんし。生きていることの定義は心臓が動いているなどの医学的根拠に準ずるべきと考えていらっしゃるんですね。
ただし、生命の存在の客観的証明となるとやはり不可能なように思えて、それについて考えること自体ができないというのがネックに感じていらっしゃるみたいですね