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たべて苛酷になる夢             見城徹  1972年5月30日。この日のことを今日まで僕は1日も忘れたことはない。  日本の青年3人がイスラエルのリッダ空港を襲撃、銃撃戦の末、空港内の警備兵や一般市民、26名が死亡。  襲撃した奥平剛士、安田安之も死亡、岡本公三は囚われの身となった。  その日を境に、僕は自分を恥じ、たいしてしてもいなかった革命ごっこの活動を辞めた。「地獄へ行っても革命をやろう」という言葉を残して、全身を蜂の巣のように撃たれながら足元に爆弾を投げ、自らを肉片と化して散っていった、奥平剛士。享年26歳。自分のことは埒外だったひたむきな若者達に比べて同年代の僕は逮捕されることも母親が悲しむことも就職ができなくなることも怖かった。 「地球上の誰かが不幸である限り私は幸福になれない」という言葉を残して34歳で革命に倒れた哲学者シモーヌ・ヴェイユ。 「僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない」と書いて35歳で戦死した小説家ポール・ニザン。  自らの信念と思想に忠実に生きようとした奥平剛士、安田安之、山田修をはじめとする京都パルチザンの若者達。そこに合流した重信房子。ただ一人、地下に潜り生き延びた檜森孝雄は2002年3月30日、パレスチナ「土地奪還の日」に若き日の友との約束を守り抜こうとして日比谷公園で我が身を焼き殺した。彼らに対する僕の後ろめたさはこの世界の中で自分が世俗的にのし上がるパラドックスの強烈なモチベーションとなった。  現実の試練に晒されない観念や思想など、それは絵空事でしかない。現実の踏み絵を踏み抜けるか否か、それのみが思想の価値を決定する。踏み抜けなければ、観念や思想など捨てるべきだ。そう思い決めてリッダ闘争からの40年、俗世間の修羅と戦いながら、懸命に生きてきた。どんなに辛いことが起こっても、彼らの戦いに比べたら楽なもんだという意識は常に持っていた。こんな風に書くことだけでも自己嫌悪でいっぱいになる。生涯、僕は奥平剛士や重信房子に拮抗できない。その代わり、獄中にいる重信房子が本を出したいという、ささやかな希望ぐらいは叶えることができる。それで自己嫌悪が解消されるはずもないが、ともかく本書はそのようにして、今、ここに、在る。  彼らの戦いはやむにやまれぬジハードだったのか、狂人の無差別テロだったのか。やがて長い歴史が証明する日が来るだろう。  たべて苛酷にならない夢を/彼女たちは世界がみんな希望だとおもつているものを/絶望だということができない  吉本隆明『少女』という詩の一節である。奥平剛士も重信房子もたべて強烈に苛酷になる夢を、たべずにはいられないようにして、呑み込んだ。そして一人はリッダ闘争で覚悟の死を選び、一人は戦いの果てに獄中で病床にある。 『ジャスミンを銃口に』という重信房子の歌集に奥平を詠んだ歌がある。 草原に身をひるがえし蝶を追う決死の戦いひかえし君は 地獄でまた革命をやろうと先に逝き彼岸で待ってる君は二十六歳  奥平剛士は僕の中でまだ生きている。目を閉じると涙が流れる。  僕は僕で生きていくしかない。 ( 。・_・。)φ_

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眠〝いれぶん〟です。
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