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見城徹

⬆︎ 僕は「悲の器」で観念の果ての果てまで連れて行かれ「マチウ書試論」でその思考を粉々にされました。「悲の器」は観念の宿命を描き切っています。そこに[行為]が加わると「邪宗門」になります。「マチウ書試論」は難解です。何百回読んでも[関係の絶対性]は掴めたようでスルッと逃げて行きます。しかし、「観念」の最終形は死をも厭わない[関係の絶対性]だとするなら「新約聖書」の作者が引き受けなければならなかった「現実」の残酷さに、即ち人間の営みのどこまでも深い暗さに、慄然とするしかありません。

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