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見城徹

9月26日、中野量太脚本・監督の「湯を沸かすほどの熱い愛」の試写を観た。 映画を観ながら、ここまで身体を震わせて号泣し、異様な感動に包まれたのは初めてかも知れない。余命2ヶ月の母親の、胸が詰まる悲しい物語なのに、衝撃のラストシーンに慟哭しながら、清々しい気持ちに満たされる自分がいた。 日本の地方都市のありふれた無名な家族の営みが丹念に描かれる。 余命2ヶ月を宣告された母親が夫や子供たちにどのような生き方を示すのか?つまり、どのように死んで行くのか?小さな生きる営みの一つ一つ。そこら辺の路傍の石の一つ一つが宝石のように輝きを放ち始め、大きな光の渦となる。死にゆく者が生きる者たちへ放つ強く、凛々しく、優しい眼差し。死にゆく者が全身で照らし出す、一歩も引かない生きることへの覚悟と決意。 母親役の宮沢りえの圧巻の存在感。娘役の杉咲花、伊東蒼の健気さと純情。夫役オダギリジョーの愛すべきチャランポラン。家族に絡む松坂桃李、駿河太郎、篠原ゆき子に滲む人生の味わい。 低予算で作り出した奇跡としか形容出来ない圧倒的な映画。 脚本・監督の中野量太とスタッフと製作陣、出演者たちに腹の底から呻くような絶賛の嵐を送ります。 これが映画だ。 ブラボー! 有難う!

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見城徹のトーク
トーク情報
  • 見城徹
    見城徹見城徹

    18歳で慶応大学進学のために静岡県清水市のマッチ箱のような家を出て、大学1年の時は横浜市港北区の日吉駅の近くに、2年になって都立大学駅の近くに下宿した。いずれも三畳一間だった。2年の秋、実家が清水市から神奈川県の相模原市に引っ越して来た。4つ歳下の妹が成績が優秀で、東京の高校に転校させたいという親心だった。幸い父親が勤める会社は東京に本社があって転勤出来たのだ。両親がなけなしの貯金とローンで購入した相模原市の粗末な建売住宅は小田急線の小田急相模原駅から歩くと40分ぐらいあった。相模原市新磯野1997。その先の土地は住所がなかった。当然、僕も都立大学の下宿を引き払って相模原に引っ越した。家から小田急相模原駅までは僕も妹も自転車で15分ぐらいかけて行ったが、寒い日や風雨の強い日は辛かった。日吉へは小田急線、南武線、東横線を乗り継いで通い、三田へは小田急線と山手線で2時間かけて通った。その狭くて質素な建売住宅の購入代金は今、僕が一晩で思い切ってドーンと使う時の食事代や飲み代と変わらない。あの頃は一本135円のビール代にも不自由していて、友人が泊まりに来るとあまり歓待できず恥ずかしかった。母親は家計を切り詰めて、しかし必死に僕らを育ててくれた。僕は廣済堂出版に入社し、妹は上智大学外国語学部英語学科に進学した。あれから50年が経った。中学・高校時代を過ごした清水市のマッチ箱のような社宅をNHK・BSの[わたしが子どもだったころ]の撮影で訪ねたことがある。あまりの狭さと素朴さに、「こんなところで暮らしていたんだ」と驚きを禁じ得なかった。そこで僕は多感な中学・高校時代を過ごしたのだ。思えば遠くまで来た。今こうして自分が在るのが信じられない。本当に50年は夢幻の如しだ。しかし、僕はこの50年の夢幻のような日々を耐えたのだ。あの頃、僕には何もなかった。初心忘れずべからず。改めて胸に刻む。いつでもゼロからまた始める覚悟を決めている。どうせ最後は土に還り、風になる。

  • 見城徹
    見城徹見城徹

    一つの恋、一つの成績、一つの言葉に絶望したり有頂天になっていたあの頃の自分に言いたい。あの頃のお前の涙や汗や淋しさはちゃんと今のお前を作っているよ、と。

  • 見城徹
    見城徹

    ↑ 訂正があります。歩くと40分はオーバーです。記憶を呼び覚ますと、歩いて30分ぐらいだったような気がします。あの頃の僕を抱きしめてやりたい気分です。

  • 見城徹
    てんあつてんあつ

    見城さんの過去ログから今日は、2018年9月を2本と2021年7月を1本お借りいたしました。

    読書は的確な言葉を血肉にするため、それらの言葉で正確に思考をするため。そして何より自分がどう感じ、どう想像するかが大事と教わって来たように思います。
    [読書という荒野]この言葉が読書をする中で、震えるほど身に沁みるようになりました。

  • 見城徹
    見城徹

    ↑ 2021年の7月の1本はカットしました。
    興味のある方はてんあつのトークに行って下さい。