さくらひめ☆こぱとさん、先程は体調の心配してくださってありがとうございました😆✨今日も安静にしてたら大分良くなったのでほぼ復活です😃 こぱとさんも画像作成が1度消えてしまったという事で大変だと思いますが頑張ってください!!ではまた向こうでお会いしましょう😃💕
こぱとのトーク
トーク情報こぱと マルチェロマルチェロ リーダーの冠を被って踏み入れた名古屋の地で待っていたのは、歓迎とは程遠いバッシングの嵐だった。
バッシングは、大組閣に端を発するものだ。それぞれの箱、それぞれのチームが持つ色が破壊されることへの恐怖、憤り、その鉾先は移籍、兼任メンバーへ容赦なく向けられた。
特にネットの住人による批判、攻撃は激しく、その刃は確実にメンバー本人に達していた。もはやスルーとか、そんなレベルでは無い。
宮澤に限って語れば、主に下のような内容である。
・リーダーの兼任はおかしい。辞任しろ。
・強烈な違和感だ。SKEに合わない。
・SKEを変えるとか言っているが、まずSKEとは何か学べ。
・パフォーマンスが悪い。振りが遅れている。
・上海一本と言ってたのに、日本に帰って来た。上海に帰れ。
なかなか辛辣である。
ネットは批判が充満する場所であるが、この批判は確実に現場レベルで起こっているように感じた。
その中でも、最大のポイントは宮澤がリーダーに就いたことへの是非である。
なぜ中西優香という頼れるリーダーから、よそ者の宮澤に変えるのか?なぜSKEを知り尽くす者から、全く知らない者へチームを託す?これだ。
おそらく自分がその時SKEを応援する立場であったなら、同じ疑問に混乱したと思う。
今となれば、既に中西が卒業の準備を進めていたことが明白であるが、当時はそんなこと知るよしもなかったのだ。
兎にも角にも、最悪の状況で、新チームの公演「制服の芽」が始まる。
評価は悪かった。一期組は別として、チームS本来の鬼気迫るパフォーマンスの欠片も無く、振りはばらばら、MCはぐだぐだ、枯葉を歌う渡辺には溜息が飛び、SKEファンの多くが、ついにはこの言葉を口にした。
「チームSは終わった。」と
私も含め宮澤佐江を応援する者にとっても、それは辛いことであった。自分の愛する者が戦犯となったのだ。
そして、そんな日々はしばらく続いた。
実は当時、宮澤はこう語っている。
「48グループは、ファンの皆さんが劇場に通って、どんどん進化していく私たちを見て下さる“ファンの方が私たちを成長させてくれる”というのが、AKB48ができたときからの醍醐味というか、モットーです。
なので100%というより、“今の私たちにしかできない、全力の作品をお見せすることができたかな”って思ってます。でももしかしたら、ずっとSKE48を見ていたファンの皆さんにすれば、厳しい目で「うーん…」って思う方もいらっしゃるかもしれません。」
宮澤佐江は先を見ていた。
その後も批判の声は、上がり続けるが、次第に変化が生まれる。
チームの結束が見え始めたのだ。
一期から昇格したてのメンバーまで、年齢も経験もばらばらのチーム、しかしそこに家族のような関係が形成しつつあった。
公演では、綾巴、李苑ががむしゃらな頑張りを見せ始め、それに他のメンバーが鼓舞され、中西、佐藤がまとめ始めた。背後には、珠理奈の巨大な存在。
楽屋では、誰よりもうるさい宮澤が、子供のように騒ぎたてる。
「チームSのメンバーといる時が、1番幸せ」雑誌のインタビューや、ぐぐたすにそんなコメントが、並び出す。
次第に批判の声を、仲間の声が掻き消した。
しかし、チームのパフォーマンスが、目に見えて良くなり、新たなチームの魅力が見え始めた頃、発表があった。
中西優香と佐藤実絵子の卒業発表である。
2014年12月24日クリスマスイブのS公演は静まり返った。
私は、新チームSが変化していくなかにも、確信が持てないことがあった。
それは宮澤が真にチームSのリーダーとして、認められているのかということだ。
メンバー内では、ほぼ完全に近い信頼関係が構築されている。しかし、
珠理奈、真那、中西を支えて来たような、生粋のSKEファンが、はたして宮澤を認めているのか?
いや、まだ認めていない、がその時の私の見解。
年が明けて、1月25日のAKB48のリクアワ「セットリストベスト1035 2015」、冒頭に戻る。
7位 奇跡は間に合わない
のテロップが映し出され、イントロに乗って飛びだして来たのは、
宮澤、珠理奈、そして・・・・
中西優香がそこにいた。
宮澤は、SKEとチームSを支えて来た中西を、AKBファンが見守るあの場に引き連れた。
中西はAKBからSKEに移籍した元祖である。
それは彼女に対する、宮澤なりのリスペクトであり、感謝の表明であったと思う。
あの時の3人の弾ける笑顔が忘れられない。
きっと中西優香を支えて来た方々にとっても、胸熱くなる瞬間であったと思う。
私にとって、2015年1月25日は、宮澤佐江が本当の意味で、チームSのリーダーとなった日である。
なぜか分からないが、あの3人があの場に飛びだして来た瞬間に、私の中につかえていた何かが消えて無くなったのだ。
そしてその日、中西、佐藤が抜けても、チームSは絶対に終わらないのだと確信した。
それは宮澤佐江の、2012年11月1日のSNH移籍から27ヶ月に渡る、長く苦しい戦いの一つのピリオドに思えた。こぱと マルチェロマルチェロ 宮澤佐江がチームSのリーダーになった日
今年のAKB48のリクアワ「セットリストベスト1035 2015」、私はライブビューイングで、コカコーラを飲みながら、まったりと鑑賞していた。
ベスト10あたりから、「そろそろかな」とドキドキが始まる。何にドキドキかというと、大好きな宮澤佐江がユニットセンターを務める「奇跡は間に合わない」の登場にである。
リクアワでこれが何位に入るのか、これが毎年気になる。さらには、昨年出演したみちゃが、某焼肉屋に転職したので、誰とトリオを組んで出てくるのか?興味深々であった。
順位が7位のところで、ようやくその時が来た。
「来たーーーっ!!」と興奮したその瞬間、
ステージに元気よく飛び出して来た3人。
佐江、珠理奈、そしてもう一人は・・・・
宮澤佐江、25才、現チームSリーダー、SNH48チームSⅡとの兼任。
AKB482期生として、グループ入りして以来、その中核として活躍して来たことは、今さら語るまでもない。
現在、宮澤は、SKE48のフラグシップチームであるチームSのリーダーを務める。
公演出演こそ減っているものの、主に外仕事をこなしつつ、コンサートがあれば先陣に立ち、ファンの期待を裏切らない貫禄のパフォーマンスを見せている。チーム内はもちろん、他チームメンからも慕われ、今やSKE48にとって欠かせない存在である。
しかしながら、宮澤佐江のSKE48における活動は、かつてゲンキングと称された、笑顔が絶えず垣間見えるような、そんな順風満帆なものではなかった。
宮澤のSKE48での活動を語るまえに、私達はいくらか時をさかのぼらなければならない。
2012年8月24日、AKB48は、念願の東京ドームコンサートを開催。「1830mの夢」、この夢の舞台において、宮澤のSNH48移籍が発表された。
SNH48への移籍は、サプライズ発表であったが、当人に事前に打診があり、最終的には宮澤自身の決断によって、なされた事である。
決断の理由は、壁の存在。選抜常連でありながら、立ち位置はいつも後列、AKBと言って顔が思い浮かぶのは、常に前に立ちメディア露出する超選抜。フロントに行きたくても行けないという壁に、彼女はもがいていた。
そんな矢先に、持ち掛けられた話。
チャンスでもあるが、賭けでもある。6年かけて作り上げたファンを日本に置いて、新たな地へ向かうのだ。
選んだ道はご存知の通り、宮澤佐江は立ちはだかる壁に向かって地を蹴った。
2012年11月1日、宮澤佐江SNH48へ移籍。
新天地でのデビューを前に暗雲が立ち込める。それは日本と中国の関係の悪化である。
お披露目に向けて動き出したはいいが、そのお披露目に出れない可能性がどころか、見通しすら立たない状況。
そんな中、宮澤は素人同然の、SNH1期生を相手に奮闘する。彼女達に、がむしゃらにチームAを追いかけた、あの頃の自分を見たのだ。
2013年1月12日、SNH48の華々しいお披露目の壇上に、宮澤佐江、そして同時に移籍した鈴木まりやの姿は無かった。
奇跡は間に合わなかった。
その後も就労ビザが降りない状況が続く。移籍により国内の仕事も激減、寝る間も無かったAKB48での生活が一変し、ただ家に居る毎日が続く。
「まだ日本に居るの?」周囲からの声も、焦りと不安に拍車をかける。
一体いつまでこの生活が続くのか?
上海にいるあの子達の顔が浮かぶ。
会いたい、話したい、
一緒にステージに立ちたい…
嬉しい出来事もあった。自宅籠城生活に入る頃、1月27日に開催された「リクエストアワーセットリストベスト100 2013」において、ユニットセンターを務め、自身のトレードマークでもある「奇跡は間に合わない」が、数あるAKB楽曲の中で、2位という順位を貰った。
ここで貰った、ファンからの愛、励ましが、この空白の数ヶ月、宮澤の希望をかろうじで繋ぎとめたのだ。
2013年4月28日『AKB48グループ臨時総会 〜白黒つけようじゃないか!〜』において、突然、宮澤のチームK兼任が発表された。
これは上海において、ビザの関係で活動出来ずにいた宮澤と鈴木を、秋元総合プロデューサーが見かねての救いの一手である。
しかし、その発表を聞く宮澤の顔はいつになく険しかった。
2013年6月8日、AKB48第5回選抜総選挙において、宮澤佐江は第10位の順位を得る。
そのスピーチにおける彼女の表明、
「私はSNH48一本でいかせていただきたいと思います。」
これは完全に宮澤の独断によるもので、関係者を驚かせるものであった。
まだステージにも立てずにいる、こんな中途半端な状況で、AKBに戻るなんてかっこ悪い、という彼女らしい考えである。
2013年6月24日、宮澤佐江のAKBチームK兼任は解除された。
そこから3ヶ月、季節は秋、ついにその日が来る。
2013年10月1日「最終ベルが鳴る」公演で、宮澤佐江は、念願のSNH劇場デビューを果たす。
家族が見守るなか披露したのは、チームK時代に汗を流した思い出の演目、「支え」ではとめどなく涙が溢れた。
移籍からすでに11ヶ月、政治と国の壁に翻弄された日々は、一つの区切りを迎える。
11月には、SNH48結成1周年の広州における、大規模なコンサートにも参加した。
SNHでようやく活動の幕が開いた宮澤に、国内で大きな仕事が舞い込む。
2014年1月8日〜3月31日に上演される、地球ゴージャスの舞台「クザリアーナの翼」への出演、女優志願の宮澤にとって、最大のチャンスである。
広州から日本に戻った宮澤は、すぐに稽古へ参加、公開された舞台では、共演する一流の舞台人に負けず劣らない、素晴らしい女優の顔を見せた。
SKEチームS兼任が発表されたのは、その舞台の合間、2014年2月24日のAKB48グループ大組閣祭りでのこと。
佐藤実絵子:宮澤さんッ!
宮澤佐江:え? 誰??
実絵子:SKE48の佐藤実絵子です!
佐江:あ、おっ…おうおう、どした?
実絵子:宮澤さんッ!!! チームSのリーダーです!
佐江:本当に? うそでしょ?
会場に入らずにボディケアを終えて、街を歩く宮澤の携帯電話への急報であった。
宮澤佐江はチームS兼任、リーダー就任を受諾する。
なぜ一度蹴った国内兼任を受諾したのか?
一つにSNHのステージに立てたこと、それとSNHが己の力で動き出した事が大きい。特にも信頼出来るダンスコーチ、マー先生の存在が、宮澤を安心させた。
もちろん長らく不在であった日本人2人の、居場所を空けておくほど、SNHも余裕は無かったのだろう。実際2人は、終身名誉メンバー的な存在なのかと思う。ビザが取れないという時点で、上海は真のホームグラウンドにはなり得なかったのだ。
それともう一つ、舞台への意欲が大きい。クザリアーナでの経験が、宮澤の心にどかんと居座る。それは、まぎれもなく新たな夢であった。
2014年4月4日、AKB48グループ春コンinさいたまスーパーアリーナ「〜思い出は全部ここに捨てていけ!〜」SKE48単独コンサートで、宮澤は、中西優香からチームSリーダー旗を受け取る。
「RESET」での大粒の涙に、客席が霞んで見えた。
同年4月25日、新チームSの制服の芽公演が開始。宮澤が日本で公演に出るのは、実に1年半ぶりの事であった。
ここまでが宮澤佐江のSNH移籍から、SKE48公演デビューまでのいきさつである。字にすれば、大したこともないかも知れないが、活動が出来ないという、タレントとして最も深刻な状況が、凄まじいストレスとなって襲ったことだろう。
そういう意味で、国内復帰は、ファンの私にとって朗報であった。しかしながら、満を持して乗り込んだ、SKE48での活動は、まさに試練の日々だったのだ。