片雲の風にさそはれて
トーク情報てんあつ 吉田真悟吉田真悟 第14回 ここではない、どこか他の場所――ゲッタウェイ宣言|オンリー・イエスタディ|見城徹 https://www.gentosha.jp/article/1617/
一九八八年四月十二日
出会った当時、20代の後半だった坂本龍一も僕も、それぞれの現場で時代のヒットを飛ばし続けていた。それでも、いつも何かに行き詰まり、つねに出口を探し求め、毎夜、心臓の縁にひりついた感情を抑えきれずにいた。夜の闇と共に、強烈な焦燥感と輝かしい狂気の時間が訪れる……。
西麻布で落ち合い、3、4軒無鉄砲に飲み歩き、夜中の2時が過ぎると広尾へ流れる。夜が明け、僕の会社が始まる時間までそこに居座り統ける。最後に辿りつく場所は、決まって広尾の「ピュルテ」という店だ。
4年間、ほぼ毎夜、いや確かに毎夜、僕たちは西麻布と広尾を流浪した。出口の見えないドン詰まりが「ピュルテ」だった。出口がないとわかっていても僕たちは毎夜ここを訪ね、ひりついた感情を酒で流した。そして朝の陽の光に日常の場所へ戻され、夕闇が訪れるとまた見えない出口を探して、西麻布から広尾の街をさ迷うのだ。
やがて坂本は、映画『ラストエンペラー』の音楽を担当すると同時に役者としても出演することになり、中国へ旅立った。が、どうも彼は中国が好きになれなかったらしい。土地が肌に合わないと、撮影が少しでも空けば東京へ戻って来た。成田空港から真っ先に僕に電話をよこし、西麻布で落ち合い、最後は広尾の「ピュルテ」で朝まで飲み明かすのだ。坂本は疲れ切っていた。「きっと、いい映画になるんだから」と励ましつづけるしかない。『ラストエンペラー』がようやく完成すると、日本でこの作品をヒットさせようと配給会社の尻をたたき、二人で走り廻った。
88年4月、坂本はこの映画によってアカデミー賞作曲賞を獲得する。発表が行われるL・Aには僕も出向き、受賞の喜びを分かち合った。贈られてきたシャンパンや花束に埋め尽くされた坂本の部屋で、二人だけの祝杯をあげた。その瞬間、共に捩れ合いながら過ごした焦燥と狂気の日々を思い起こしながら、どんなに無駄に思えても、無駄なことなど何ひとつない、と実感していた。