ヤスナガのトーク活動再開
トーク情報- ヤスナガ
ヤスナガ ↑二朗さん、徹底的にやる気ですね。「表現者としての戦い」みたいだ。
彼が折れれば、日本の演劇界・映像界は「誰かに都合の悪いことを言われないよう、全員がロボットのように振る舞うだけの場所」に成り下がってしまう。
特に以下の点。
「橋本さんの事務所は当初、日常的なシーンで想定される接触はOKだとしていた」一連の騒動の中で焦点の一つとなっている、身体接触があった翌日に佐藤が橋本の楽屋をアポなしで訪れたことについて、佐藤はこう振り返る。
「この日(編集部註:橋本との身体接触があった翌日の3月23日)、たしかにチーフプロデューサーの男性から呼ばれました。そして、初めて橋本さんのトラウマについて知らされ、身体的な接触を控えるように要請されました。そこで僕は彼に『ならば、具体的にはどのような接触がいけないのでしょうか』と質問をしたんです。ところが、明確な答えは返ってこなかった。結局、曖昧な言い方でごまかされてしまいました。チーフプロデューサーは橋本さんの事務所に振り回されているように見えました」
↓ここな
チーフプロデューサーは、橋本サイドから「日常的な場面のお芝居については特段、接触制限の問題を気にされなくても大丈夫ですよ」と撮影前に伝えられていた旨を佐藤に説明。
「つまり、橋本さんの事務所は当初、日常的なシーンで想定される接触はOKだとしていた。にもかかわらず、僕の指が橋本さんの顎に触れてしまったことが大きく問題視されたのです。僕からすれば身体接触の可否の基準が途中で変わったようにしか思えませんでした。
なぜ、フジは現場を適切に仕切り、一貫した基準をきちんと設けることができなかったのでしょうか」
その後に続く佐藤の言動に関しても、彼が語る真実と文春報道やフジテレビの声明との間には大きなギャップがある。相当な剣幕で橋本に「あなたは役者をやるべきではない!」とまくし立てたとされるが、一部の言葉だけが切り取られており、怒声を浴びせたような事実もなく、共演者とのわだかまりをなくし、関係を修復しようと努めていたことが、その証言からは浮かび上がってくる。
7月9日発売の「週刊新潮」では、騒動後の心身の不調、事態の収束を心から願う気持ちなど、6ページにわたって佐藤へのインタビューの全文を掲載する。
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フジテレビ、制作サイドはもう一度考えを改めるべきだな。また、法的な損害賠償云々の前に、彼女が自分の主張を貫くために「佐藤さんをハラスメント加害者と認定する構造」に加担したことで、佐藤さんの役者としてのキャリアと精神に甚大な傷を負わせた事実は重い。コレは佐藤二朗さんだけではなく、彼女は芝居の世界に関わる人達にこれだけ迷惑をかけて、壊してしまったわけだからね。早く出て来て自分の言葉で語った方がいいと思うが、難しいのかな。この件に関しては、完全に自分中心で考えるのは間違っている。こればかりはSNSという訳にはいかんだろう。 - ヤスナガ
ヤスナガ まず一つ思ったのは、堂安律選手の話は本当に本質を突いているということ。
最近、仕事でも似たような出来事があって、ふと麻雀や将棋、チェスのことを思い浮かべた。
例えば麻雀なら、ドラを3枚持っていても、他の10枚がバラバラなら簡単には和了れない。逆に配牌が良くても、最後の1枚を引けなければ勝負は決まらない。そして、そのわずかな差を埋めるのが「打ち手の思考」と「選択肢の多さ」と「運」だ。運ばかりはどうしようもないときがあるが‥。悪いときは最小限にすることは可能だろう。
スポーツも同じだと思う。
勝てるチームには、状況に応じて最善手を選べる選手と監督がいる。もちろん運の要素もある。でも、運だけでは勝ち続けることはできない。
だからこそ、個の力を磨き続けること。そして、勝てる選択肢と戦術眼を増やし続けることが何より重要なんだと思う。
これはサッカーだけの話ではない。
今の日本社会や企業にも、そのまま当てはまる。
AIがここまで普及した今、年齢に関係なく、私たちは世界中の優秀な人たちと同じ土俵で戦う時代に入った。
最近の仕事を通じて、その現実を改めて痛感した。
「配られたカード」で勝負する時代ではない。
「どれだけ勝ち筋を持っているか」が、その人や組織の未来を決める時代なのだと思う。 - ヤスナガ
ヤスナガ 【細木かおりのズバリ言うわよ!】数々のベストセラーを世に送り出し、日本の出版界を牽引してきた幻冬舎代表・見城徹さんをズバリ占います![第七十五回ゲスト:見城徹さん] https://youtu.be/ghaFuN4vjy4
- ヤスナガ
ヤスナガ 川邊健太郎さんの「7つの激変」を読んでいる。
ブラウザの誕生から現代までの30年間を、「検索」「SNS」「動画」「通販」など七つの変化で描いたインターネット史を描いた内容だ。
著者と年齢が近いこともあってか、共感できる部分が多い。20代前半から今まで、巨大な波に乗ってきた気分にすらなる。時代の変化の波、技術の進化の波、コミュニケーションの変化の波、人の思考や感情の変化の波。そのすべてに乗ってきたし、何度か転覆しかけもした。物凄いうねりだった。
その中で今日は一つ印象に残ったフレーズを。
「さびしさ再生産」という言葉だ。
インターネットやSNSなどのデジタルコミュニケーションが、つながりを求める人間の孤独感を、かえって増幅させてしまう現象を指すという。この部分は著者も書いている。
ただ、個人的にはこう思う。インターネットがなかった時代でも、人間関係はそもそも「満たされなさ」を内包していたのではないか。誰かといても分かり合えない瞬間があったり、親密になればなるほど相手との違いに気づいて余計に孤独を感じたり。恋愛でも友情でも、近づこうとする行為そのものが「完全には分かり合えない」という事実を再確認させてしまう。そういう構造は、きっと昔からあったはずだ。
とはいえ、そうした人間の欲求がインターネットを生み出し、SNSがそれを増幅させる巨大な装置として機能してきたことは間違いない。著者の川邊さんも、本書の中で「さびしさ再生産」はまだ完結していないと書いている。次に来るのは間違いなくAIだろう。波で言えば、これまでよりもかなり大きなうねりがやってくる。
昔は一日単位、あるいは人間関係の単位でゆっくり回っていたループが、今では秒単位でひたすら供給され続けている。量も頻度も桁違いになったから、体感としては「デジタル特有の孤独」に見える。けれど、その根っこの構造自体は、もともと人間に備わっていたものだ。そして、これを解決する術を、日本はまだ持っていない気がする。簡単に言えば、「岩盤規制」と叫ぶだけの人たちの学習能力の乏しさが、それを物語っている。
人の根っこにあった部分を放ったらかしにしてきたツケが、いま国に、行政に、企業に回ってきている。まさにデジタル敗戦先進国だ。「さびしさ再生産」は、日本にとって大きなツケであると同時に、これから本格的に始まる「AI物語」の序章を予感させる内容になっている。
30年前、世界は紙至上主義の人と、まだ電信柱に過ぎなかったインターネットを信じた人とで真っ二つだった。自分は当時、いかがわしい後者の側にいた。あれから30年。いかがわしさ満載の連中が活躍できる国になっているのか。それを受け入れられる企業が、どれだけ増えたのか。本書は、そんな問いを静かに再確認させてくれる良書だ。
注釈 いかがわしさは、挑戦者と捉えてもらいたい。書いておかないと変な捉え方する人もいるからね。
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