熊崎雅崇のトーク
トーク情報熊崎雅崇 見城徹見城徹 ↑ 丁度28年前に尾崎豊が逝った。1992年の4月25日もよく晴れた日だった。朝から外出して昼頃自宅に戻り、留守番電話のスイッチを起動した。当時は携帯電話はまだなかった。留守電の最初が尾崎の音楽プロデューサーのソニーミュージックの須藤晃君で「尾崎が亡くなりました」から始まっていた。その後は僕のコメントが欲しい物凄い数のメディアからの連絡が入っていた。留守電を聴くのを途中でやめて、須藤君に電話した。ダイヤルを押しながら外を眺めたのだろう。眩くて爽やかな4月末の光が不自然で、その日差しだけを強烈に覚えている。
最後に須藤君が言った。
「見城さんと僕にしか解らないけど、なんだかホッとしましたね」
僕にとっても正直な実感だった。それからどうしたのかは全く記憶から抜け落ちている。尾崎の個人事務所「アイソトープ」の副社長に僕が据えた[月刊カドカワ]の契約社員だった鬼頭明嗣と話していないとおかしいのだが(おそらく話したのだろうが)、全く記憶にない。というか須藤君との電話以降の記憶が全くないのだ。
金の算段をし、人を集め、不動産屋を回り、代々木八幡に尾崎豊の個人事務所アイソトープを設立して1年半。地獄の日々があっけなく終わった瞬間だった。
あれから28回目の4月25日。地獄の日々。今日もあの日のように爽やかに晴れている。熊崎雅崇 見城徹見城徹 ままならない人生。殆どの人がそう思って生きているに違いない。僕も沢山の鬱屈を抱えて寝室から外を眺めている。今、あることに全力を注いでいる。これが上手く行かなかったらと想像すると絶望的な気分になる。覚悟を決めて決断したし、
圧倒的努力もした。後は運を天に任せるしかない。
一つだけやっておかなければならないことがある。
失敗した場合、どう対処し、どう凌ぐのか?
辛いが最悪のケースの準備はしなくてはならない。
それとは関係ないことだが、5年間の苦難が11月末で終わりを迎える。決断してからの5年間は長かった。しかし、何とか凌ぎ切ることが出来た。
今回の案件は一瞬で勝負が決まる。期待と不安。
自ら省みて縮(なお)くんば 一千万人といえども我いかん ーー孟子
上手く行かないのが人生だ。そう思い決めて生きて来た。倒れても倒れても立ち上がる。前に進む。戦う。恐怖と不安で発狂しそうになるが、耐える。忍ぶ。永遠の安息まで後少しだから。