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三上雅博のトーク
トーク情報
  • 三上雅博
    三上雅博

    本日は親父の過去の投稿より、2026年1月の投稿をリトークさせて頂きました。

    死に様こそが生き様だ。イメージは既に出来ている。死ぬ瞬間まで淡々と、黙々と、粛々と、握り続ける鮨職人であればいい。それが今日でも明日でも、10年先でも100年先でも同じこと。その日まで、絶望の日々を耐え忍べ。悠久の中の一瞬を、実をも散らして狂うのみ。

  • 三上雅博
    見城徹見城徹

    奥平剛士 遺書

    ご無沙汰しております。今ローマから書いています。これが最後の手紙になるでしょう。国を出る時から生きて帰ることはないときめていましたが、不思議に今まで生きのびて、多くの人にあい、多くの事を知り、そして、最初の考え通りの路を行こうとしていること、何度考えても、ありがたい事だと感じます。思う通り、わがままいっぱいにさせていただきましたこと、お礼の言いようもありません。ついに孝養のこの字もさせていただくひまもありませんでしたが、もしも任務が許すならば、いつも第一にそれをしたいと思い続けていた事は、わかって下さい。我々兵士にとっては死はごく当然の日常事ですが、ただお二人が嘆かれるだろうこと、それだけが今僕の心を悲しませます。ベトナムで今死んでいく数千の若い兵士、こちらで、又、世界の至る所で、革命のために死のうとしている若い兵士たち、僕らもその一人だし、あなたがたも彼らのために泣いている何千何万の父や母の一人であること、こうした我々の血と涙だけが何か価値のある物を、作り出すであろう事をいつもおぼえていて下さい。
     ローマの空は明るく、風は甘いです。町は光にあふれています。少年時よみふけった、プリューターク*の思い出が町の至る所で、僕を熱くさせます。仕事がすみしだいお二人のもとに帰ります。
     ではお元気で。さようなら

    剛士

     お守りはちゃんと持って行きます。写真**といっしょに。(1972年5月29日)」

     * 『プルターク英雄伝』のこと
     ** 早世した長兄の写真のこと

  • 三上雅博
    見城徹見城徹

    奥平 剛士(おくだいら つよし)
    1945年(昭和20年)7月21日 - 1972年(昭和47年)5月30日)は、日本の新左翼活動家、テロリスト、革命家。日本赤軍創設メンバーで最高幹部。同じく日本赤軍メンバーの重信房子は戸籍上の妻、奥平純三は弟。山口県下関市生まれ。1960年に山口県立下関西高等学校に入学したが、6月に岡山県立岡山朝日高等学校に転校。
    1964年、京都大学工学部に入学。

  • 三上雅博
    三上雅博

    本日は親父の過去の投稿より、2026年1月の投稿をリトークさせて頂きました。

    僕もかつて行かせて頂いた、ローマの景色が頭の中を巡ります。己の信念のため、純粋なまでに殉じる覚悟をしながらも、無邪気に笑う「奥平剛士」の姿を想像します。残酷な覚悟を決めた漢の背中は美しくもあり、哀しくもあります。
    死を意識することで、初めて生を実感する事が出来る。死の淵から生を照らせ。今日を大切に、懸命に、感謝の念で生きるのだ。

  • 三上雅博
    見城徹見城徹

    人は死ぬために生きる。死というゴールに向かって全てのことは進んで行く。ならば、日々をどう生きるか?
    一日一生。毎日、死を覚悟して生きる。
    それを続けるしかない。死は常に生に同居している。死ぬために今を全力で生きる。
    生きるとは死ぬことと見つけたり。

  • 三上雅博
    三上雅博

    本日は親父の過去の投稿より、2026年2月の投稿をリトークさせて頂きました。

    いつ訪れるかもわからない人生の終焉。その瞬間、僕は微笑んでいたいから。
    絶望し切って、後悔し切って、全力を出し切って、血を流し切って、この命を使い切る覚悟で、かけがえのない今日を生きるのだ。
    その為に、弱い自分を切って切って切り捨てろ。己の屍の上を行け。