見城徹見城徹 奇跡はまだ続く。
モハメド・アリに敗れてジョージ・フォアマンは1年以上休養、リングに復帰し4連勝するが勝てばモハメド・アリへの再挑戦権が得られる試合に敗れ、1977年28歳でリングを引退、キリスト教の牧師になった。しかし、1987年突如として現役復帰。そして、1994年11月5日、フォアマンは世界ヘビー級タイトルマッチのリングに立つ。劣勢の中、10R右ストレートの一撃で世界王者マイケル・モーラーをマットに沈め20年振りに45歳9ヶ月で世界ヘビー級チャンピオンにカムバック。勝利の瞬間、ジョージ・フォアマンはコーナーポストの前で跪き、神に感謝した。これを奇跡と言わずして他に何と言おう。
K0183のトーク
トーク情報K0183 - K0183
K0183 見城さん。いつもあたたかいお心遣いをありがとうございます。
三上雅博さんがリトークされた2020年1月の見城さんのご投稿を、何度も読み返しました。
私も、夜中に些細な一言を思い返して眠れなくなる。大きな仕事を終えた翌日に、取るに足りない失敗で膝を折る。積み重ねても、脆さは消えません。
半年前、キンシャサの奇跡に心を揺さぶられ、アリとフォアマンの不撓不屈に言葉を綴りました。あの時は「20年越しの復讐ではなく、20年の祈り」と書いた。
7ラウンド、打たれ続けたアリの中にあったもの。ただ「まだ倒れていない」という事実だけだった。45歳のフォアマンも、9ラウンドまで負け続けた体の中に、きっと溜息があった。かすかな弱さが、何度も足を止めようとしていた。
それでも、拳を握り直した。
溜息が、祈りに変わる。祈りが、拳に変わる。
昨日の私の投稿。何年も格闘し続けた扉と、想像もしなかった形で開いた扉。小さなことにくよくよしながら、現場を離れなかった日々の先に、それは静かに届きました。
奇跡とは、特別な瞬間ではない。へこたれながらも、諦めずに立ち続ける――その時間を積み重ねた者に、黙って届く。
立ち上がる瞬間が、いちばん暗い。
溜息をつきながら、戦い続けます。
正直、誠実、善良、真心。
本日もよろしくお願い申し上げます。 - K0183
K0183 見城さん。いつもあたたかいお心遣いをありがとうございます。
「ないよね」と自嘲されるその姿こそが、凄絶な「人生」の裏返しだと思えてなりません。
背中は、持ち主にだけ見えない。背中に人生は飾れない。
私は15年間、見城さんの背中を見てきました。
その背中には、「人生」どころではない。75年分の傷も、喪失も、それでも手放さなかった四つの言葉も、全部滲み出ている。
背中に人生がないと笑う人の背中を、何千人もの人間が、今も追いかけている。
背中は、持ち主にだけ見えない。だけど、私にははっきり見えます。
自分では見えない背中が、他人の人生を照らしている。
正直、誠実、善良、真心。
本日もよろしくお願い申し上げます。 - K0183
K0183 見城さん、755の皆さま、こんにちは。
先日、「潮目が変わった」と書いた。その話を、相棒とした。
私が来るよりかなり前から、ずっとここに立ち続けている。私の方が年下なのに、組織上は私の部下ということになっている。すぐ調子に乗って突っ走る私に、いつも程よくブレーキをかけてくれる。地に足がついている。そしてとても優しい。怒ったことがあるのかと思う。私は年から年中怒りまくっているのに。
「やれることをやるのと、無理してやるのは違う」
穏やかに、けれど強く言ってくれた。
壊れるかもしれない場所まで踏み込め、ということだ。
いつも物静かで、決して怒らない相棒が、「まだ無理が足りない」と言ったような気がした。
潮目が変わったと安堵し、走り方を緩めかけていなかったか。
師匠は、最後まで無理をし続けた人だった。身体が限界を超えても、現場を離れなかった。普通なら、あんな生き方はしない。
「自力でこじ開けた扉」と「他力で開いた扉」。けれど今日、気づかされた。
扉が開いたことばかり語っていた。その横で、その扉が閉まらないように支え続けてくれていた相棒に、私は気づいていなかった。
暴走しかけるたびに、怒鳴るのでも諫めるのでもなく、ただ黙って足元を指してくれた。ブレーキをかけてくれる人だと、ずっと思っていた。
だが今日、ブレーキではなかった。
ブレーキをかけるその静かな手が、誰よりも強く私の背を押している。
正直、誠実、善良、真心。
本日もよろしくお願い申し上げます。 - K0183
K0183 見城さん、755の皆さま、こんにちは。
桜が咲いている。
凱旋という言葉には、本来、歓声や拍手や光が似合う。けれど私が生きてきた現実には、そんな華やかな帰還はほとんどなかった。
負けたと思う日。自分の未熟さを突きつけられた日。守れなかったものを思い知らされた日。眠れない夜の底で認めるしかなかった。
本当に苦しいのは、負けたことそのものではなく、負けたあとも自分から逃げられないこと。
でも、見城さんの「敗者の凱旋」という言葉を思うとき、その言葉に、息ができる。
敗者とは、そこで終わった人のことではない。敗北を背負ったまま、もう一度戦場に戻る人のことなのだと。敗れたまま、それでも歩き続けること。誰の目にも映らない道を、旗も持たずに。
傷が癒えたから戻るのではない。赦されたから戻るのでもない。みっともなさも、後悔も、自己嫌悪も、全部抱えたまま、それでも持ち場に帰ってくる。
凱旋の道が、桜の下にあるとは限らない。
敗者の凱旋は、誰にも気づかれずに、明け方の戦場で傷みを抱きしめたまま始まる。
拍手はいらない。勲章もいらない。
持ち場に戻る足音が、凱旋の行進曲だ。
正直、誠実、善良、真心。
本日もよろしくお願い申し上げます。

