見城徹見城徹 旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る
芭蕉の最後の句になったこの句が頭にこびりついて目が覚めた。夢の中で枯野をかけめぐっていた。高校時代から何故かこの句を自分なりに映像化していて、何度か夢に出て来る。死の直前、走馬灯のように自分の人生の断片が頭の中でかけめぐる。そんなイメージだ。角川書店で17年、幻冬舎で26年。辛く苦しい道を喘ぎながらここまで来た。12月末で69歳になる。予想外の人生だった。今、こうしてここに在るのが信じられない。もう充分に生きた気がする。仕事と戦った。女性を愛した。友と過ごした。死の直前は荒涼たる枯野だろう。その荒涼たる枯野を僕の人生の一刻、一刻がかけめぐる。そうやって人生を終える。微笑して。
三上雅博のトーク
トーク情報三上雅博 三上雅博 見城徹見城徹 30年前、僕は38歳だった。編集長だった[月刊カドカワ]は毎月、倍々ゲームで部数を伸ばして破竹の快進撃を続けていた。僕が一人でコツコツと作っていた銀色夏生は出せば100万部を超えた。担当作品は次々直木賞を取り、ベストセラーを量産した。坂本龍一や尾崎豊、ユーミンを初めとするミュージシャンたちと決定的な仕事をした。毎夜のように楠田枝里子とバー・ラジオやル・クラブで会って飲んでいた。会社を一番儲けさせていたから、大概の希望は通った。金は湯水のように使った。今から考えれば最高の日々だった。しかし、毎日、毎日、辛くて仕方がなかった。楠田枝里子といる時だけが唯一の慰めだった。今から思えば絶頂の時だったが、40年前だって、20年前だって、10年前だって絶頂期だった気がする。人は絶頂期だと後から気付くのだ。そして後から気付いてももう遅い。
- 三上雅博
三上雅博 ↑
おはようございます。
2019年10月の親父の投稿のリトークです。
僕は約30年前にこの世界に入りました。
もうすぐ45歳になります。
この年になるまで鮨職人を続けるなんてその時の自分には想像もしていませんでした。
途中で挫けると思っていました。心が折れると思っていました。
自分は何をやっても続かない駄目人間です。
色んな事をやっては失敗して諦めて、僕にはこの仕事に縋るしか無かっただけの様に思います。
ただ、いつもその時の自分に出来る精一杯で生きていました。僕の根本は昔から変わっていません。いつだってどんな場所だって熱狂していました。目の前の与えられた場面で全力を尽くしてきました。
ただそうやって生きていたら今の自分になりました。
いつだって絶頂期。だからこそ今日が愛おしい。
本日も皆様、宜しくお願いします。