1 名前:ひかり ★ [sage] :2021/02/26(金) 17:03:59.83 ID:CAP_USER9
音楽プロデューサーの小室哲哉(62才)とglobeのKEIKO(48才)の長きにわたる離婚問題がついに決着だ。2月26日に離婚が成立したことが、女性セブンの取材により分かった。
別居生活を続けていた夫婦は今週、約3年ぶりの“再会!を果たした。だが、そこはかつての愛の巣などではなく、法廷だった。
「おふたりは調停には出廷したようですが、会話をしていないだけでなく、顔すら合わせていません。KEIKOさんが小室さんと会うことを拒否したそうです」(KEIKOの知人)
ふたりの夫婦生活は、まるでジェットコースターのように浮き沈みが激しいものだった。
世間を驚かせた電撃婚は2002年。以後、公私を共にし、夫婦で日本の音楽シーンを彩ってきた。2011年にKEIKOがくも膜下出血で倒れると状況は一変。一命はとりとめたものの事実上の活動休止に。その間、夫の小室が献身的に妻を支える日々を送っている──と思われていた。
2018年1月、『週刊文春』が、小室が看護師のAさんと数年来にわたって不倫関係にあると報じた。小室はすぐに釈明会見を開き、KEIKOが「高次脳機能障害」であると語った上で音楽に関心を持たなくなったこと、「夫婦として、大人の女性としてのコミュニケーションが日に日にできなくなった」こと、「小学4年生の漢字ドリル」をやっていることなどを明かし、介護で心身ともに疲れ果てていると涙ながらに告白。Aさんとの男女関係は否定した上で、騒動の責任を取る形で、突然の引退を発表した。
この会見によって小室への同情論が巻き起こったが、不貞行為をした側が擁護されるという不思議な現象は長続きしなかった。
同年7月、今度はKEIKOの親族が『週刊文春』の取材に答えた。小室の会見は嘘ばかりで、KEIKOのプライバシーを悪し様に語ることで「論点をすり替えた」と主張したのだ。
「そこから、小室さんがKEIKOさんに生活費を渡していなかったことや、KEIKOさんの実家に多額の借金があったことなどまで明るみになり、その後、離婚調停に発展したのです。離婚成立まで長引いたのは、金銭関係の話し合いがこじれていたためでしょう。
結局、小室さんの涙の会見は何だったのか? 夫婦間のことは他人には分からないことも多いのでしょうが、小室さんがKEIKOさんに対し、誠意ある対応をしていなかったような印象を受けましたね」(芸能記者)
不倫報道から3年。これで夫婦は正式に別々の道を歩むこととなる。
NEWSポストセブン
https://news.yahoo.co.jp/articles/beb35fccb46809f28fc4d6851c99e0e7016ee89a
指がちょっと血を流し始めるまで打楽器のように酔いどれピアノを弾け
トーク情報- じょんれのん。
じょんれのん。 1:征夷大将軍 ★:2025/01/20(月) 20:52:40.93 ID:CABQwwMa9
1960?1971年まで『NHK紅白歌合戦』に12回連続出場した歌手で俳優のアイ・ジョージさん(本名・石松譲冶)が亡くなったことが1月20日、NEWSポストセブンの取材でわかった。91歳だった。
NEWSポストセブン2025.01.20 20:18
https://www.news-postseven.com/archives/20250120_2018605.html?DETAIL
https://www.news-postseven.com/uploads/2025/01/20/ai_george03-644x750.jpg
「東京都内の自宅で倒れているところを親族が発見し、そのまま死亡が確認された。病死で、事件性はないようです」(関係者)
日本人の父とスペイン系フィリピン人の母を持つジョージさんは、流しの歌手を経て「黒田春雄」名義でデビュー。その後1959年に「アイ・ジョージ」名義で再デビューすると、1963年には米ニューヨークのカーネギー・ホールで日本人のポピュラー歌手として初めて公演したとされている。
「1959年にメキシコから来日した『トリオ・ロス・パンチョス』が作った“ラテン歌謡ブーム”に乗ってブレイク。1960年には楽曲『ラ・マラゲーニャ』で第11回NHK紅白歌合戦に初出場しました。
1961年にリリースした代表曲『硝子のジョニー』は、翌年に宍戸錠(享年86)さん主演で映画化され、ジョージさん本人も出演しています。その後も『赤いグラス』などのヒット曲を生み、1971年まで12回連続で紅白歌合戦に出場しました。
俳優としても活躍し、本人の自伝的映画『アイ・ジョージ物語 太陽の子』(1962年)のほか、長嶋茂雄さんが主演した『ミスター・ジャイアンツ 勝利の旗』(1964年)、高倉健さん主演の『顔役』(1965年)などにも出演しています」(スポーツ紙記者)
昭和の流行歌として誰もが親しむ曲を複数作ったジョージさん。晩年も、音楽の仕事に意欲的だったという。直近までともに仕事をしていたという芸能関係者の話。
「先週も会いましたが、いつもと変わりなく元気でした。『今年は80歳の新人歌手のプロデュースがあるんだ』と話しており、本人も楽しみにしていただけに、亡くなったと聞いて驚いています。
近年は心臓にペースメーカーを入れていましたが、昨年の9月にも知り合いのスナックで、ジョージさんの誕生日パーティーを開いていました。マッコリを飲みながら、変わらない歌声で堂々と歌っていたのが印象的です」
ご冥福をお祈りします。