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吉田真悟

◆1974年〜(約3年9カ月)小木曽大使の料理長を務める ・着任早々、1週間で12人分のフルコースを用意(「リオン・ドール」で研修しアメリカ大使の好物のウサギ料理も添えて) ・夏休みの1か月間を利用してローザンヌ・クリシエ村の「ジラルデ」で雑用開始。天才シェフ、フレディ・ジラルデと出会い、スポンタネ(即興料理)に触れる ・大使の任期の終わりにジラルデと正式雇用契約を結ぶ。結局「ジラルデ」では公邸料理長の時代から5年間も修行を行うことに ◆1980年、フランスへ渡り約2年間、名店で武者修行を ※最終的に三ツ星シェフのサティフィカ(人物証明、推薦状)を5通も保持することに 以下修行順は不明 ・トロワグロ兄弟の「トロワグロ」(三ツ星レストラン、客席数100席ほど)でデシャップ(各部門から上がってくる料理を皿に盛りつける担当)を任される ・ルイ・ウーティエの「ロアジス」(カンヌ近郊にある) ※この頃の三國の月収は5000フランから8000フランあったが、自己投資のためいつも文無しに、最初の給料の入る1か月間をコートダジュールの海岸で野宿でやり過ごした ・ジャン・ドラベーヌ(国宝級のシェフ)の「カメリア」(二つ星)でソーシエ(ソース作り)を担当する ・アラン・シャペルの「アラン・シャペル」(三ツ星レストラン、リヨン郊外にある) ※「ジラルデ」を辞める時、ジラルデ本人がシャペルに直接電話で依頼し、3年後にやっと欠員が出たため採用になった。店ではデシャップを任される ※シャペルから盛りつけた料理に対して「セ・パ・ラフィネ」(洗練されていない)と言われ自分のルーツが日本にあることに気が付く。天才の料理を真似た優等生の料理から、日本人として、自分にしか作れないフランス料理を目指すことに ◆1982年12月に8年もの料理修行を終えて帰国(28歳) ◆1983年3月、市ヶ谷の「ビストロ・サカナザ」で雇われシェフに ※この頃、角川書店の編集者だった見城先生と三國シェフは出逢う ※店は「ジラルデ」スタイルで、その後、店の経営についてオーナーとすれ違い、1年8カ月で店を辞めることに ◆1985年3月に四ッ谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」を開店(全て借金で準備し、厨房6名、ホール12名の計18名、40席でスタート)   ・「皿の上に、僕がある。」を出版 ※この本には見城先生が角川春樹さんの名前でコメントしているらしい。😂😂 (5日で120皿を作った料理写真集)グルメブームもあるが、この本のお陰で、半年間客が入らない状態から何カ月も先まで予約が埋まる店に変身 ・1990年、開店から5年が過ぎたころ、アラン・シャペルが来店しゲストブックにメッセージを記入  ジャポニゼ(日本の食材や食文化を取り入れて)によりフランス料理の可能性を広げたことを絶賛する ※この2か月後にシャペルは亡くなるのだが「セ・パ・ラフィネ」に対する回答が無事済む ・各国の高級ホテルでミクニ・フェスティバルが大成功 ※動画『情熱大陸』参照(ギラギラした三國シェフが映っている) https://youtu.be/Ivg4OUbqBLM ※この中に登場する奥様とは離婚した模様😄 ・アラン・シャペル時代に一緒に働いたアラン・デュカス(三ツ星)やミッシェル・トロワグロ(三ツ星)とコラボしてシェフを務める ※店を始めた頃は「ジラルデ」スタイルの前衛的料理であったが、40歳を過ぎた頃から「シャペル」スタイルに変更し後継者の育成に力を入れる ・2007年にミシュランガイド東京版が発刊されるも「オテル・ドゥ・ミクニ」の名前は無かった ※このいきさつは『三流シェフ』を読んでくれ   ◆2015年 フランス共和国レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを受章(日本人初) 推薦人:ポール・ボキューズ、ジョエル・ロブション、アラン・デュカス ◆2022年12月28日 「オテル・ドゥ・ミクニ」を閉店  ※この時、直営店、プロデュース店を含め13店舗を経営し、従業員は165名もいた ◆2024年?~ 「オテル・ドゥ・ミクニ」跡地にカウンター8席とBARもある「三國」をオープン予定

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