ログイン
詳細
見城徹

⬆︎ [マチウ書試論]は吉本隆明が[マタイ伝]をどう読んだかという思考の足跡です。[マタイ伝]をダシにして、のっぴきならない自分自身を表出したものです。それが「批評」というものです。吉本の抱えている「難関」と僕の「難関」は当然違います。福田さんの「難関」とも違います。その個的な「難関」を抱える吉本によって[マタイ伝]は[マチウ書試論]に作品化されたのです。学者のように[マタイ伝]を分析、解読したのではありません。極めて個的な事情に端を発して[マタイ伝]を批評したのです。それは自己表出であり、文学であって、学術書ではないのです。ですから、どう書こうが吉本の勝手です。吉本は[マタイ伝]の作者の内面に自己を重ねたのです。 吉本はユダヤ教に親近感を持っているのではないのです。何故、[マタイ伝]の作者は穏やかなユダヤ教を憎悪し、暴きたて、反逆しなければならなかったのか?性急な革命闘争を戦いながら、人妻を恋し、人妻を奪うという「反倫理」を全力で生き切り、自己否定の地獄から自己肯定に反転する精神の暗闘を、絶望的に試みたのが[マチウ書試論]なのです。自分が傷を負わない安全地帯にいるコメントは誰にでも出来ます。吉本は自らの抜き差しならない問題として[マタイ伝]を批評し、[マチウ書試論]を戦ったのです。

前へ次へ
見城徹のトーク
トーク情報