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見城徹

誰もがデッドエンドに乗り上げながら、何とか生きようともがいている。僕もそうだ。昨日だって働きながら、食事をしながら絶望的だった。がむしゃらに働いて来て答えはこれなんだと思うと胸が張り裂けそうだった。人間関係は誤解で成り立っている。必死に相手を理解したい。相手にも僕を理解して欲しい。僕は人の善い人たちが好きだ。その人たちのために生きて、働きたい。でなければ、僕はとっくに仕事を辞めて悠々自適に暮らしている。 僕の自己満足だけど、僕の幻冬舎人生を支えてくれた人たちや業者に恩返しをするために、去年の末に大きな決断を実行に移した。それが真っ当な道だと思ったからだ。コロナがなければ、まだこの先考えていることがあった。コロナは僕に僕の人生に踏み絵を突き付ける。僕の幻冬舎の28年は何だったのか?たった6人で不安と恐怖で始めた頃のあの強い連帯を思い出す。遠くまで来てしまった。今、創業以来最大の試練の前で立ち竦んでいる。思い悩むのは僕の業のようなものだが、人の善い献身的な人たちのために僕はまだ戦わねばならない。敢えて言う。僕の人の善さと献身は彼らの胸深くに届くだろうか?

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見城徹のトーク
トーク情報
  • 見城徹
    見城徹

    2025年2月16日。
    大阪で[mikami limited 50]を営む鮨職人・三上雅博がリトークしてくれた2021年7月の僕のトークです。↓

  • 見城徹
    見城徹見城徹

    ↑ 尾崎豊の事務所[アイソトープ]を作る時、
    尾崎豊と鬼頭明嗣を連れて尾崎の実家を訪ね、ご両親に仁義を切った。玄関近くの狭い日本間のちゃぶ台に出前の鮨が並び、ビールで乾杯をした。ご両親は大喜びで迎えてくれて、僕はホッと胸を撫で下ろしたのを覚えている。角川書店(現・KADOKAWA)のサラリーマンでありながら尾崎豊の事務所を作るなどと言う無謀なことをよくしたなあ、と今となっては思う。
    あの日が無ければ尾崎豊は復活しなかった。
    しかし、あの日が無ければ尾崎豊は死なずに済んだかも知れない。今さら考えてもしょうがないことだけど。
    あの日、尾崎豊の実家からの帰り道、僕たちは希望に溢れていた。

  • 見城徹
    三上雅博三上雅博


    今日は遅くなってしまいました。2021年7月の親父の投稿のリトークです。

    僕は尾崎豊が亡くなった後に尾崎豊の歌に出会いました。「15の夜」を初めて聴いたのが僕が中1くらいだった気がします。その時既に尾崎豊はもうこの世にいなかった。しかしその事実が僕の中の尾崎豊を伝説のカリスマにたらしめたのです。
    親父がジムで尾崎と再会していなければ、僕が卒業アルバムに尾崎豊の歌詞を書くことも無かったのだ。僕は運命に導かれて、今を生きている。

    本日も皆様、宜しくお願い致します。

  • 見城徹
    あやかあやか

    見城さん、私のこんな拙い文章を読んでくださり、また素敵なコメントまでありがとうございます!
    見城さんや755との出会いは、私の人生の糧となっています。
    見城さんにお会いする事ができた時には、しっかり感謝の気持ちをお伝えしたいと思っているのですが、幻冬舎モバイルのオフ会の時も緊張しすぎて頭が真っ白になってしまったし、堀江貴文さんのミュージカルの時も、見城さんが目の前にいらっしゃるにもかかわらず、見城さんのオーラに圧倒されお声掛けする事ができませんでした😣
    今年も見城さんにお会いできる機会があれば、全国どこへでも参ります。
    今日は忘れられない感動の日となりました。
    見城さん、ありがとうございました!!

  • 見城徹
    MiRAIMiRAI
    投稿画像

     現場は待ったなし。何の不平も言わず、休日に製造ラインを稼働してくれるスタッフに、どんなアフタートークをしたらいいのだろうか。

     “アフタートーク”は、[モテる仕事論 鳥羽周作]を読んで脳内に突き刺さった言葉。

     この書籍、この言葉以降から、グサグサ刺さりまくる見城さんの金言の連続で倒れそうになります。自分を直視出来なくなるくらい。素晴らしすぎて、眩しくて、ツラい。(つまり、それくらい思いっきりお勧め致します!。)

     それでも現場は稼働するから。私は今は足元を固めるしかありません。明日も匍匐前進致します。押忍!