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見城徹

三宅一生さんと初めてお会いしたのは1976年か1977年だったと思うから45年ぐらい前になる。 僕は角川書店(現・KADOKAWA)の「野性時代」という文芸誌の編集者で、「野性時代」のアートディレクターは石岡瑛子さんだった。 僕は作家の他に石岡瑛子さんも担当していて毎日のように三田ハウスの石岡瑛子事務所に通ったものだ。 ある冬の日の夜遅く、六本木のサパークラブで石岡瑛子さんと急に入った原稿のアートディレクションの打ち合わせをすることになった。 今でも店の名前を覚えている。六本木の[ママジョーズ]。待っていた僕に石岡瑛子さんが1人の男性を連れて現れた。黒いマントを羽織った彫りの深いその男性を石岡瑛子さんは、 「かの有名な三宅一生さん」 と僕に誇らしげに紹介してくれた。 ファッションに詳しくなかった僕はその時、三宅一生さんを知らなかった。正直に僕がそう言うと、「最悪ね、見城くんは」と言われてしまった。三宅一生さんはそんなことを意に介する様子はなく微笑していて、しばらく打ち合わせをして 零時を回った頃に解散した。翌日、石岡瑛子さんに手厳しく叱責されたが、知らないものはどうしようもなかった。 それからたまに三宅一生さんにお会いした。 「野性時代」の対談に出て頂いたり、ケニアの画家とコラボした服をデザインしてもらったりした。会食も3回ぐらいはしただろうか? 会えば気さくな方だったが、ここ20年は全くお会いしていなかった。三宅一生さんが僕に言ってくれた言葉を訃報を聞いて鮮やかに思い出す。 「見城くんの魅力は胸筋なのよ」 どういう意味だったのだろうか?僕の胸に手を当ててそう言った。合掌。

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見城徹のトーク
トーク情報
  • 見城徹
    見城徹見城徹

    「見城さん、運が良くて羨ましいですよ」
    と人から言われる時、僕はいつも.
    「ホント、僕は運が良いんです」と返しながら、
    「僕は貴方の100倍の血の滲むような努力をしているんだよ」
    と心の中で呟いている。結果が出ていない人には誰も「運が良いですね」とは言わない。だから、言われることは悪くない。「強運の持ち主だ」と言われ続けたい。しかし、同時にいつも心の中で呟いていたい。

    僕は貴方の100倍の血の滲む努力をしているんだよ。これほどの努力を人は運と言う!

  • 見城徹
    三上雅博三上雅博


    おはようございます。
    2020年6月の親父の投稿のリトークです。

    「これほどの努力を人は運と言う」。
    親父のこの言葉が大好きです。
    この言葉を初めて見た時、深く心に刺さりました。
    僕が親父に出会えた事は圧倒的努力の果てに味方してくれる「運」が呼び寄せた「奇跡」だ。
    血の滲まない努力は努力じゃない。
    だから今日という一日に死力を尽くす。

    皆様、本日も宜しくお願い致します。

  • 見城徹
    見城徹

    ↑ 上の2枚の写真はノースショアです。
    気に入った絵があったので、思わず買ってしまいました。ノースショアはのどかで昔の古き良き時代のハワイの面影を残しています。僕の生まれ育った静岡県清水にある三保海岸付近もこんな佇まいになったらいいなあと思います。海岸沿いに並ぶ風が吹き抜けるシーフード・レストランとバーとカフェ、そして、アートギャラリー。ブティックと雑貨店。日本に帰ったら、僕の母校である静岡県立清水南高校の創立60周年記念の同窓会に出席します。全卒業生が対象ですが、そんなに集まらない気もしています。余りにも対象が広過ぎますから。僕は清水南高の4期生でした。創立間もない高校に進学したのです。それが良かった。僕は清水南高の空と風と海で作られました。小・中学時代よりも、大学時代よりも、清水南高の3年間が僕の血と骨と肉になっています。卒業生合同同窓会出席に間に合うように帰国を早めたのは清水南高校に心を込めてそのお礼をスピーチするためです。

  • 見城徹
    見城徹

    片想いしている女性の前に出るとどうしても自意識過剰になって失敗ばかりするよね。僕はいつもそうでした。思ってもいないことを言ってみたり、言葉が上滑りしたりして自意識過剰な嫌な奴になってしまう。高校時代も74歳の今も同じような気がします。想いはいつも通じない。それが、恋。ですね。

  • 見城徹
    見城徹

    メールで型通りの新年の挨拶が沢山来る。
    年賀状ならまだしも、メールで型通りの挨拶など迷惑なだけだ。何百人にも同じ型で送っているのだろうが、そんなものに何の意味があるだろうか?むしろ、この人とは付き合えないなあ、と僕は思う。だから、あなたはダメなんだよ、と。こんなことを思う僕は変人で狭量なのだろうか?