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見城徹

↑ 道徳の授業の先生がまやかしの希望を説くような最悪の詩だと僕は思います。そんなことの果てに「サヨナラだけが人生だ」と于武陵は詩っているのです。寺山修司の11年前に生まれた吉本隆明に[少女]という詩があります。 えんじゅの並木路で 背をおさえつける 秋の陽なかで 少女はいつわたしとゆき遇うか わたしには彼女たちがみえるのに 彼女たちには きっとわたしがみえない すべての明るいものは盲目とおなじに 世界をみることができない なにか昏いものが傍をとおり過ぎるとき 彼女たちは過去の憎悪の記憶かとおもい 裏ぎられた生活かとおもう けれど それは わたしだ 生まれおちた優しさでなら出遇えるかもしれぬと いくらかはためらい もっとはげしくうち消して とおり過ぎるわたしだ ちいさな秤でははかれない 彼女たちのこころと すべてたたかいを 過ぎゆくものの肉体と 抱く手を 零細を たべて苛酷にならない夢を 彼女たちは世界がみんな希望だとおもっているものを 絶望だということができない わたしと彼女たちは ひき剥される なぜなら世界は 少量の幸せを彼女たちにあたえ まるで 求愛の贈物のように それがすべてだそれが みんなだとうそぶくから そして わたしはライバルのように 世界を憎しむというから 寺山修司にいつも思うのは「この人の世界への嫌悪と虚無は小手先だなあ」ということです。 パフォーマンスなんですね。短歌にはいいものもあるんですがこういう詩にはガッカリします。 てんあつを初め寺山修司ファンの方々には申し訳ありません。sandに対して悪意は全くありません。誤解なきように。

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