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三上雅博

親父、本日はわざわざ大阪までお越し頂きまして誠に有難う御座いました。 待つのはまるで悠久の時。幸せな時間は刹那に過ぎてしまいます。 今日も親父に鮨を握れた! 僕にとって生きてて良かったと思える瞬間です。 このお店もなんとか三年が経ちました。節目となる日に親父に来て頂けた事を光栄に存じます。 鮨しかできない鮨馬鹿ですが、これからも日々精進して参ります。 親父、いつもいつも有難う御座います。涙

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三上雅博のトーク
トーク情報
  • 三上雅博
    見城徹見城徹

    誰もが人生の苦さに耐えて生きている。謂れのない誹謗、中傷、誤解、嫉妬、敵意…。
    何かを成すとはそういうものに耐えることでもあるのかも知れない。
    辛い時、秋元康のことをよく想う。秋元康は何を耐えているのだろうか?あの優しさ。あの大きさ。あの自然体。しかし、秋元も人生の苦さに耐えている。そのはずだ。秋元を想うと元気が出る。秋元の域に達することは出来ないが、僕も微笑して耐えるしかない。

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  • 三上雅博
    三上雅博


    おはようございます。
    2020年1月の親父の投稿のリトークです。

    僕は辛い時、親父の事を想います。親父の言葉を胸になんとか一歩踏み出します。親父を想うと元気が出ます。親父の域に達することは出来ませんが、僕も微笑して耐えるしかありません。

    本日も皆様、宜しくお願い致します。

  • 三上雅博
    三上雅博

    ネットで検索したらブログで詳しく説明してくれている方がいらっしゃいましたのでコピペさせて頂きました。

    ↓↓↓

    情けあるなら今宵来い

    2012-06-07 05:55:55
    テーマ:日本のいい話
    幻冬舎社長、見城徹氏の心に響く言葉より…


    『情けあるなら、今宵(こよい)来い』

    「百万語を費やしたところで、
    たった一つの行動には敵わない。
    その行動は、早ければ早いほどいい。
    一番いいのは、今すぐ行動に移すことだ」

    「真があるなら、今月今宵。
    あけて正月、だれも来る」

    これは、高杉晋作の言葉として知られている。
    死を覚悟して決起する時、傍観を決め込む陣営を訪ねて、唄ったとされている。

    僕はそれを翻案して次のように言っている。

    「情けあるなら今宵来い。明日の朝なら誰も来る」

    「情けあるなら、今宵駆け付けてくれ。
    同志として一緒に事を成そう。
    この辛い今こそ、君が必要なんだ。
    明日の朝だったら、何人か来るだろう。
    しかし、明日の朝では、もう遅いんだ。
    来てくれても嬉しくともなんともない。
    本当の同志として、俺は認めないよ」

    人は、口ではいくらでもいいことを言う。
    しかし、実際に行動で表す人は、ごくわずかだ。
    無理を伴うものであれば、なおさらである。

    でも、それをする人は、揺るぎない誠意のある人だ。
    高杉はこう呼びかけることで、本当に命を賭ける気がある人だけを、選(よ)り抜こうとしたのだ。

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  • 三上雅博
    見城徹見城徹

    [憂鬱でなければ、仕事じゃない]は我ながら名言であると思う。憂鬱でない仕事なんてない。憂鬱でないトレーニングなんてない。憂鬱でない恋愛なんてない。つまり、憂鬱でない人生なんてない。

  • 三上雅博
    見城徹見城徹

    今は皆んな使うけど、[圧倒的努力]も僕の言い出した言葉だ。憂鬱を超えていくためには[圧倒的努力]しかない。

  • 三上雅博
    三上雅博


    おはようございます。
    2020年1月の親父の投稿のリトークです。

    勝者には何もやるな。やり切った者にしか観れない景色がある。官能がある。
    奇跡は圧倒的努力の先にしか存在しない。
    それほどの努力を人は「運」と言う。
    僕達は、理解の外にいる人々に「運が良かった」と笑顔で返せば良いだけだ。

    皆様本日も宜しくお願い致します。

  • 三上雅博
    三上雅博

    修行とは、一切の欲望を絶って心身を鍛錬、浄化する宗教的な行為である。
    世の中にも己の内側にも欲望が渦巻いている。
    一体どれだけ捨てたら僕は本当の鮨職人になれるのか。
    今際の際の自分には殆ど何も必要ない筈なのに。
    こうして「修行」は僕が死ぬまで続くのだ。