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ikutamaのトーク
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    見城徹見城徹

    最も理解されたい人に最も理解されないのが
    [人生]。だから、生まれ落ちた全ての人は切ない。それでも生きる。生きねばなりません。善良に生きます。

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    ikutama

    [EX原理](加藤雄太)を読みながら、見城さんのご投稿と向き合っています。

    分離とはお互いを理解するために生まれた距離
    『愛とは、分離を受け入れながら、それでも“ひとつ”を見ようととする働き。完全な一体ではなく、距離を保ちながら結ばれている関係』

    読んだだけでは、力にならない。傷つた心の隙間を、言葉で隙間を埋めて、立ち上がり、踏み固めないと消えてしまう。
    生きるために読みます。

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    見城徹見城徹

    45年前、楠田枝里子、長友啓典、篠原勝之と4人でよく酒を飲んだ。その長友啓典は10年前に亡くなり、最近、篠原勝之が逝った。BARラジオでワインを抜き合った篠山紀信や和田誠も鬼籍に入った。
    昨日は小黒一三の訃報を受けて呆然とした。小学館の島本脩二、マガジンハウスの小黒一三、角川書店の見城徹で編集者三羽烏と言われた時代があった。3人で坂本龍一との仕事や時代を切り拓くプロジェクトを争った。島本脩二は2022年、坂本龍一は2023年に逝き、今、また小黒一三を失った。皆んな死んでゆく。小黒一三とは同い年で30代の10年間毎日のように一緒に飲んだ。最近は全く会っていなかったが、
    僕の青春は小黒一三無くしては語れない。
    切磋琢磨するライバルであり、親友だった。破天荒で繊細で見事な漢の生きざまだった。世間的評価など一瞥もしなかった小黒一三という怪物編集者のノンフィクションを作りたい。僕も間も無くあっちに行く。手土産は知られざる小黒一三のノンフィクションだ。小黒一三とのあの狂気じみた日々は今も僕の胸で疼くように燦然と輝いている。合掌。

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    『編集者三羽烏』が頭から離れない。
    島本脩二 小学館
    小黒一三 平凡出版(マガジンハウス)
    見城徹  角川書店

    島本さんは「まったく読書をしない人の家に、1冊だけ置いてある本を作りたい」と考え、糸井重里を起用して矢沢永吉の『成りあがり』を出版。文庫版は当然系列会社の集英社から出るものと思われていたが、見城さんがしぶとく交渉して、角川文庫から出版され、100万部を超えるベストセラーになった。後日、島本さんは「かなりいい条件を角川が提示してきた」と話している。(参考:Wikipedia)

    坂本龍一さんは日本経済新聞のインタビューにこう答えている。
    https://www.nikkei.com/article/DGXMZO35963470R01C18A0000000/
    日本の雑誌もかつてはそれ以上に勢いがあったんですよ。よく仕事をさせてもらったのは角川書店にいた見城徹さん、マガジンハウスにいた小黒一三さん、小学館にいた島本脩二さんの3人。日本出版界の黄金期をけん引したカリスマ編集者で、それぞれ思い出が深いですね…3人とも人間的な魅力にあふれたエネルギッシュな編集者。自分たちが一番面白がって仕事をしていましたね」

    島本脩二「編集は対話から始まる」(島本さんの講座のタイトル)
    小黒一三「編集は嘘をつくこと」 (菅付雅信『東京の編集』)
    見城徹「編集とは感動だ」(『編集者 魂の戦士』)

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    僕はかつても今も日本の坂本龍一事務所[KAB]の代表取締役社長である。名ばかりの社長就任に当たって決めたことが3つある。給料は取らない。経費は[KAB]では落とさない。幻冬舎から坂本龍一に仕事は頼まない。坂本龍一とは青春を捩れ合うように過ごした。毎晩のように朝まで飲んだ。淋しい。猛烈に淋しい。

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    『困っている時に助けてくれるのが友人だとすれば、彼は間違いなく数少ない友人の一人です』という坂本龍一さんの言葉に心打たれました。

    坂本龍一さんの書籍を探すときに、幻冬舎から出ている本がほとんどなくて、不思議に思ったことがあるのですが、755で見城さんのご投稿を拝見し、その理由を知りました。
    仕事を超えたお二人の関係を想像すると胸が熱くなります。

    https://toyokeizai.net/articles/-/198718?page=5

    ――坂本さんにとっての仕事ってどんなものでしょうか。
    それこそワーカホリックだった30、40代のときなんかは仕事のことしか考えていなかった。だいたい昼の12時から夜の12時まで、12時間仕事して。そこから朝まで飲みに行く。で、3、4時間寝て、また昼から仕事をして、という生活を何年もずっと続けていました。
    ――寝る時間は3、4時間くらい?
    そうですね。だいたい1週間のうち6日間は、夜から朝までずっと飲んでいた。だいたい7時ごろに帰ってましたが、盛り上がっちゃうと11時ごろまでということもありました。
    ――それは朝の、ということですよね。
    そう、朝です。ニューヨークに行く2、3年前までは、毎日のように現・幻冬舎社長の見城徹氏を付き合わせていました。彼は「もう帰らせてくれ」と泣いてました(笑)。
    ――そんな生活に変化が出てきたのは、いつごろからでしょうか。
    やはりひとつはニューヨークに移住したということが大きいですね。夜遊びをしなくなったから。今ではほとんど外出もしなくなりましたね。見城のように心底付き合ってくれるヤツもいないし。まあ、探せばいるのかもしれないけど。

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    見城徹見城徹

    1985年8月12日。僕は六本木のレストラン[マナハウス]で村上龍と2人で食事を摂っていた。19時過ぎに日航機123便の墜落の報が飛び込んで来た。客は僕たち2人だけだった。店の高松オーナーも村上龍も僕も急に無口になり、ニュースを映し出す店のテレビに釘付けになった。あれから41年が経ったのか?あの時にマナハウスの窓から見た暮れなずむ空を今でも鮮明に覚えている。

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    1985年に起きた日航機墜落事故。過去の事故の杜撰な修理が原因で機体が空中で大きく損壊して墜落。520人が死亡した日本史上最悪の航空事故。
    この事故を契機に、航空安全の考え方が見直された。人の技術に依存する方法から、設計・整備・組織・運航など、事故に至るシステム全体を評価対象にして、人がミスをしても事故にならない仕組みへと変化した。
    事故現場の特定と捜索に時間を要し、生存者の発見は、事故から15時間50分後だった。
    4人の生存者がいたことは、その後の救助活動・事故調査・遺族支援・事故の記憶に大きな意味を持った。
    事故当日、テレビ局各社は一斉にニュース速報を流した。当時の人が受けた衝撃は計り知れない。見城さんのご投稿を拝見して、忘れてはならない惨事を胸に刻む。