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見城徹

皆んなから「それは無理だ。無謀だ」と言われ、誰が見ても圧倒的不利な状況をひっくり返した時、結果は鮮やかになる。それこそが仕事であり、それこそがその人のダイナミズムだ。だから、わざと圧倒的不利な状況を選ぶ。苦難の道を行く。鮮やかな結果を出し続けていればその人のブランドが出来、ブランドに金は付いて来る。

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見城徹のトーク
トーク情報
  • 見城徹
    見城徹

    2026年2月22日。
    大阪で[mikami limited 50]を営む鮨職人・三上雅博がリトークしてくれた2018年9月の僕のトークです。↓

  • 見城徹
    見城徹見城徹

    18歳で慶応大学進学のために静岡県清水市のマッチ箱のような家を出て、大学1年の時は横浜市港北区の日吉駅の近くに、2年になって都立大学駅の近くに下宿した。いずれも三畳一間だった。2年の秋、実家が清水市から神奈川県の相模原市に引っ越して来た。4つ歳下の妹が成績が優秀で、東京の高校に転校させたいという親心だった。幸い父親が勤める会社は東京に本社があって転勤出来たのだ。両親がなけなしの貯金とローンで購入した相模原市の粗末な建売住宅は小田急線の小田急相模原駅から歩くと40分ぐらいあった。相模原市新磯野1997。その先の土地は住所がなかった。当然、僕も都立大学の下宿を引き払って相模原に引っ越した。家から小田急相模原駅までは僕も妹も自転車で15分ぐらいかけて行ったが、寒い日や風雨の強い日は辛かった。日吉へは小田急線、南武線、東横線を乗り継いで通い、三田へは小田急線と山手線で2時間かけて通った。その狭くて質素な建売住宅の購入代金は今、僕が一晩で思い切ってドーンと使う時の食事代や飲み代と変わらない。あの頃は一本135円のビール代にも不自由していて、友人が泊まりに来るとあまり歓待できず恥ずかしかった。母親は家計を切り詰めて、しかし必死に僕らを育ててくれた。僕は廣済堂出版に入社し、妹は上智大学外国語学部英語学科に進学した。あれから50年が経った。中学・高校時代を過ごした清水市のマッチ箱のような社宅をNHK・BSの[わたしが子どもだったころ]の撮影で訪ねたことがある。あまりの狭さと素朴さに、「こんなところで暮らしていたんだ」と驚きを禁じ得なかった。そこで僕は多感な中学・高校時代を過ごしたのだ。思えば遠くまで来た。今こうして自分が在るのが信じられない。本当に50年は夢幻の如しだ。しかし、僕はこの50年の夢幻のような日々を耐えたのだ。あの頃、僕には何もなかった。初心忘れずべからず。改めて胸に刻む。いつでもゼロからまた始める覚悟を決めている。どうせ最後は土に還り、風になる。

  • 見城徹
    見城徹見城徹

    一つの恋、一つの成績、一つの言葉に絶望したり有頂天になっていたあの頃の自分に言いたい。あの頃のお前の涙や汗や淋しさはちゃんと今のお前を作っているよ、と。

  • 見城徹
    三上雅博三上雅博

    本日は親父の過去の投稿より、2018年9月の投稿をリトークさせて頂きます。

    北海道の片隅から、気がつくと随分遠くまで来た。
    得ては失い、失っては手に入れた。過去があるから今がある。
    元々ゼロが原点だ。いつでもゼロから始める覚悟で今日を生きる。
    初心を忘れるべからず。

    本日も皆様、宜しくお願い致します。

  • 見城徹
    斉藤徹斉藤徹
    投稿画像

    沈みゆく光を見ていると、人生の終わりについて考える。一昨年、父をがんで亡くした。闘病の末、父が最後に残した言葉は、「幸せな、良い人生だった」その一言だった。人生の価値は長さではなく、納得して生き切れたかどうか。その言葉が、私の人生観を変えた。
    人は終わりが来ると知りながら、それでも今日より明日を良くしようと前へ進む。その姿にこそ、人の尊さがあるのだと思う。
    私は24歳で起業し、19年。多くの苦しさを経験したが、ここまで来られたのは人に恵まれ、運に支えられてきたからだ。それは決して当たり前ではない。だから人生の後半は、支えてもらう側ではなく、支える側として生きていきたい。

  • 見城徹
    見城徹

    ↑ 小田急相模原の駅から40分はミス記載です。30分はかからなかったような気がする。清水市吉川の小糸製作所静岡工場の社宅も相模原の建売住宅も今から考えると信じられないくらい粗末な家だった。両親は懸命に僕と妹を育ててくれた。今になって解る。自分たちの楽しみは一切封印していたのだ。父親はその捌け口を安酒に求めて夜はたいがい酔っ払っていた。当時は父親の酒だけは嫌だったが、何にも不満はなかった。高校までは清水市から離れて暮らすことなど考えていなかった。一生を清水市で終わると当然のように考えていた。その時から随分と遠くに来てしまった。あの頃の小さな幸福が懐かしい。あの頃の純粋な自分が愛おしい。何かを得れば、何かを失う。通俗な価値を得て、かけがえのない価値を失う。長く生きるとはそういうことだ。それでも生きる。失ったものを取り返すように本を作り、映画に挑む。仕事以外に僕には人生の手段がない。僕は「幸せな、良い人生だった」と言って死ねるだろうか?