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ikutama

『さすらいのギャンブラー』。その後の行動的確に的確な表現です。どこへ行くかは重要では無く、どれだけ身を削って勝負できるか。自分の精神を満足させてくれる場所を探し求める。井川意高さんの言葉を借りれば『破滅するかもしれない瀬戸際にあるのがギャンブル』。それを探し求めてさまよう怪物のような精神力。卒業時点でその生き方を予感させている。

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ikutamaのトーク
トーク情報
  • ikutama
    ikutama

    今、三島由紀夫の「葉隠入門」を読んでいる。「葉隠」をこの本で知ったので、三島の解釈が一般的なものなのか、私にはわからない。ただ、“生が保証される”と“生に飽きる”という人間の本質を据え、『毎日死を心に当てることは、毎日生を心に当てることと、いわば同じことだ』という思考に一つの説得力を感じる。
    1970年の今日、民主主義の時代を生きた三島由紀夫は武士として死んだ。

  • ikutama
    見城徹見城徹

    吉本隆明論[私的闘争の仁義]を書いていると吉本の初期の論稿「伊勢物語論」に字数を割かざるを得ない。吉本隆明の「伊勢物語論」はヴァレリの言葉の引用から始まる。

    今伊勢物語の感想を語るについて、ヴァリエテ(ママ)の一節を引用したのは他意があったわけではない。僕達が古典におもむく心とはとりもなほさずこの時間の不可思議さに対する驚異の念に外ならないと思へたのである。(中略)
    永遠とは何であるのか。僕はこの「時間に対する畏敬」という感覚を外にして永遠への感覚が在り得るとは思へないのである。伊勢物語とは明らかにその様な畏敬を感覚される稀有な作品であることは確かだ。

    吉本はこのようにして伊勢物語論を書き始める。既にここには[共同幻想論]に至る端緒が芽生えている。自分の生に仁義を切ろうとする時、人は時間という概念を深く考えざるを得ない。その時、吉本の胸に[伊勢物語]は避けて通れないテクストになったのだ。

  • ikutama
    ikutama

    伊勢物語について調べると、主に在原業平の恋愛や冒険を描く物語だが、時間の流れが直線的ではなく、断片的で詩的に展開される。時間を“単に物理的進行”としてでは無く、芸術表現を高める手段として使っている。昔話によくある「昔」という言葉も伊勢物語では、繊細な想定があり、意味を持つ。

    難解なトークに出会い感想を書く。調べれば調べるほど、興味が湧く。恐るべし伊勢物語。学校教育という共通の土台があるから、思考や対話ができる。共同体における義務教育の大切さを改めて認識した。

  • ikutama
    見城徹見城徹

    1970年11月25日は晴れていた。両親と妹が静岡県清水市の小糸製作所の社宅から神奈川県相模原市に買った小さなプレハブ住宅に引っ越して来て、僕も東京都目黒区柿の木坂の下宿を引き払って合流したばかりだった。僕は慶應義塾大学法学部政治学科の2年生だったが授業には殆ど出ることはなく、鬱々とした日々を実家で過ごしていた。三島由紀夫が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入して自決。衝撃的なニュースをテレビが映し出していた。呆然としてテレビに釘付けになった。その後のことは覚えていない。翌朝、自転車を飛ばして小田急相模原駅の売店で新聞全紙を買い、駅構内にある[箱根そば]のスタンドで「コロッケうどん」を食べたのだけは何故か鮮明に記憶に残っている。1970年11月25日は衝撃的な日だった。行為することは死ぬことだ。漠然とそう思った。
    1972年5月30日。奥平剛士、安田安之らがイスラエルのテルアビブ空港を銃撃。空港警備隊に蜂の巣のように撃たれながら自分の足元に爆弾を投げて自爆した。この2日で僕の青春は終わりを告げた。僕は狡猾にこの世界で生き延びる道を選んだのだ。三島由紀夫の死から54年。世界はこともなく僕の前に佇み、僕は73歳になって生きている。

  • ikutama
    ikutama

    『行為することは死ぬこと』本当に力を使い果たせば、人は死ぬ。限界に近づけば死ぬリスクは高まる。行動の結末は死。死は全力で生きた証。ただし、死ぬことが重要なのではない。死ぬ程に生きることが重要なのだ。生死の境を忘れる程に惹かれる何かを見つけることが重要なのだ。

  • ikutama
    ikutama

    初めてアマゾンで予約購入しました。
    理由↓
    ①“経済学の解説書”として
    ②天使か悪魔か、“前澤さんの価値観”について
    ③“読む以上の価値を提供する体験型の本”である
    ④自分が生きる時代を理解するために
    ⑤箕輪さんの「ミリ単位のこだわり」をみたい
    株を取得するかは、読んでから決めますが、楽しみにしています。

  • ikutama
    見城徹見城徹

    僕は慶應義塾の114回目の卒業生です。卒業する者全員の就職先と自宅の住所が記され、卒業生の応募原稿と、発表されている作家や詩人の作品などの転載で構成されたかなりぶ厚い冊子です。卒業生全員に配られます。
    僕は就職先の欄に[さすらいのギャンブラー」と記し、顰蹙を買いました。子供だったなあ、と思います。

  • ikutama
    ikutama

    『さすらいのギャンブラー』。その後の行動的確に的確な表現です。どこへ行くかは重要では無く、どれだけ身を削って勝負できるか。自分の精神を満足させてくれる場所を探し求める。井川意高さんの言葉を借りれば『破滅するかもしれない瀬戸際にあるのがギャンブル』。それを探し求めてさまよう怪物のような精神力。卒業時点でその生き方を予感させている。